2022/03/16

●『1936年の日々』は、アンゲロプロスの初期作品(長編二作目)であり、既にアンゲロプロスを決定づける特徴的な要素の多くがみられるが、その後の作品とは異なる点もいくつかみられる。

まず、この作品には、ギリシアと聞いてすぐ思い浮かべるような特徴をもつ風景(強くて鮮やかな光、青く澄んだ空、強い光によって強い対比であらわれる白い石造りの壁や建築など)がみられる。その後のアンゲロプロスの映画では、例外的な場面を除いてほぼ常に空は曇っている。また、基本的に長回しが使われてはいるものの、厳密にワンシーン・ワンショットが貫かれているわけではなく、カットが割られる場合もあるし、長回しのカットの間に短いカットが挿入されることもある。そして、「あらすじ」としてみれば、ハリウッドの娯楽作としても通用するような分かりやすい「物語」が存在する。

物語とは次のようなものだ。演説中の左派の政治家が暗殺される。暗殺犯とされる男が逮捕されるが、男は容疑を否認している。男は刑務所でなぜか特別待遇を受け、右派の大物政治家がしばしば面会にくる(二人の間には同性愛的な関係が匂わされる)。ある日、どこかから銃を手に入れた男が、面会に来た大物政治家を人質に立てこもり、自分を釈放しなければ政治家を殺すと言う。保守政党の本部は騒然となるが、心配する政治家の母に党首は「将軍」が動いているから大丈夫だと言う。保守党は男を釈放する方針だが、野党は男を釈放したら不信任決議を出すと主張して対立する。刑務所に要人たちが集まり、対策を協議する。

一方、男の弁護士は、正式な裁判を通じて男を釈放するために調査に奔走する。しかしその先々に関係する人物たちの不審な死があり、弁護士自身も襲われて調査資料を奪われる。しかしそれでもなお調査をつづけ、男を正式なやり方で救おうとする。刑務所の要人たちは、立てこもる男を毒殺しようとするが失敗。最後の手段として、拷問などのダーティーな仕事に関わる男が呼び出され、政治家を誤射することなく、確実に男だけを射殺する方法が検討される。そんな折に、男は「音楽」を要求し、刑務所の中庭でレコードがかけられて音が鳴り響き、囚人たち全員がそれに反応するという印象的な場面がある。結果として、男は射殺され、政治家は無事救出される。その後、何人もの関係者とされる者たちが、裁判を受けることもなく射殺される。

右派による左派の有力政治家の暗殺と、その隠蔽。罪をなすりつけられようとする人々が抵抗するが、結局は押し切られて殺されてしまう。ここにあるのは、左派と右派の対立であるより、罪を押しつけようとする権力と、押しつけられてしまう者たちとの抗争・抵抗だろう。アンゲロプロスによると、これは実際に起った事件(複数の事件を組み合わせて構成している)だという。当時のギリシアでは、労働者による政党がかつてない力を持ち、デモやストが頻繁に行われていた。だからこそ、左派への強い危機感が生まれ、急速に中道と右派とが結びついた、と(左派の台頭が、逆向きの力を強めてしまうというのは、共産党への反感の受け皿となったナチス民主党政権後の安倍政権などにも通じる、よくある構造だと言える)。しかし、ギリシアの現代史という文脈を知らなければ、ある意味で抽象的とさえ言えるくらいに、典型的な「ポリティカルな物語」にみえてしまうだろう。

娯楽作にもなり得るような「物語」を、アンゲロプロスは徹底してアンチスペクタクル的な手法で映画として組み立てる。我々がこの映画で見ることになるのは派手なアクションではなく、陰鬱な顔をしたおっさんたちが、そぞろ歩き、ドアを開けたり閉めたりし、部屋に入ったり出たりして、部屋のなかを歩き回ったり椅子にすわったりするところばかりだ(刑務所の囚人たちが、集団で騒いだり、逃げだしたりはするが、その様も遠くから眺めている感じだ)。あるいは、偉そうなおっさんたちの式典やパーティーだろう。おっさんたちが連れだって、刑務所の廊下を重たい足取りでただ歩くだけでこれといって何も起らない時間が延々つづいたりする。しかしその様は弛緩したものでは少しもなく、運動の抽象性が際立つという意味で、重たくてゆったりとしたミュージカル(劇団四季とかのミュージカルではなく、フレッド・アステアなどのハリヴッドの古典的ミュージカル)のように緊密に構築された時空として現われる。

アレクセイ・ゲルマンの『わが友、イワン・ラプシン』では、ポリフォニックで同時多発的な出来事が狭いフレームの持続によって縫い合わされるようにして時空が紡がれるが、それとは異なり、カメラの動きと人物の動きが一体化したかのように不可分に結びついていて、人物がこう動くのは、カメラがここにあってこう動くからであり、カメラがこう動くのは、人物がここにいてこう動くからだ、と、互いに絡み合って同時生成しかたのように緊密だ。見ているのは抽象的な運動のバリエーションの見事な差配であり、物語は、その隙間から辛うじて読み取れるという感じだろうか。

なぜ、娯楽作のように物語らないのか。それはおそらく、ここで捉えられようとしているのが、個人の視点から見られた歴史、個によって生きられた歴史ではない形であらわれる、非人称的な、「歴史そのものの動き」とも言えるようなものだからではないかと思う。誰かの行為の能動性、誰かの感情や身体の受苦性によって形作られる(顕在化される)歴史ではなく、個々のものとしてある多数の細かい運動の違いやズレや行き違いを、より大きなフレームによって一つのうねりのように、一つの複雑な機械の駆動のように捉えること。歴史をそのように捉えることが、当時のアンゲロプロスにとっての政治=形式だったのだろう。

(『蜂の旅人』くらいからは、個が強く出てくるように思う。)

「物語」としては中心にいるはずの、暗殺の容疑をかけられた男は、映画としては二つの場面(逮捕される場面と、射殺された死体の場面)しか登場しない。多くの時間登場するのは、無名の囚人たちであり、難しい顔をつき合わせるばかりでこれといって何もできない要人たちだ。権力者に抑圧された囚人たちは、騒いだり、逃げたりするが、結局は牢の中に戻される。権力者である要人たちは、ただうろうろするばかりで、特に打開策をみいだすこともない。どちらにしても、ただいるだけで、事の進行に有用な介入ができるわけではない。しかし、その「ただいるだけ」の時間や気配、うろうろ歩き、立ったり座ったり、ドアから入ったり出たりすることしかできない、その存在する様がとても濃厚にたちあがってくる。