2022/03/24

●たとえばアピチャッポンは、20世紀的な「映画」とはまったく違った地点から作品をつくっていると思うが、ビー・ガンはそうではなく、若いとはいえ普通にシネフィルだと思われ、(圧倒的にセンスがよいというのは前提として)その点では特に大きな謎はなく、まったく新しいものを観ているという感じではない。『凱里ブルース』の驚きは、これをここまでやり切るのか(確信の強さ)、ということであり、ここまでやり切るとこうなるのか(確信によって生まれたものの強さ)、ということだ。

長回しというものに、なぜこんなに興奮させられるのか。デジタル技術により、カメラの軽量化、ランニングコストの低下、事後的な加工のしやすさなどがもたらされ、その結果、フィルムの残量を気にしながら35ミリの重たいカメラをクレーンで移動させていた時代に比べて、長回しの「ありがたみ」はすっかりなくなったように思っていた。しかしここまで極端に(そして愚直に)長回しを徹底することで、失われたと思われた興奮が甦り、そして、その極端さにおいて「長回しの可能性(長回しによって映画になにがもたらされるのか)」が、とてもくっきりと浮かび上がったように感じられる。後者によって、この長回しはたんなる懐古的復活とは別のものとなっていると思う。

マティスの絵画が、平面性を強調すること(三次元から一つ次元を引くこと)で、逆説的に超三次元的な(三次元には収まらない)空間をたちあげるのと同様に、カットを割らずに視点の同一性(持続性)を維持し続けることによって、逆説的に、トリッキーなモンタージュよりもなお強く、現実的な三+一次元の時空からの遊離を実現することができる。『凱里ブルース』の長回しが示しているのはこのことだろう(とはいえ『凱里ブルース』にはトリッキーなモンタージュも数多くあって入り交じっているのだが)。しかしそのためには、 (ヒッチコックの『ロープ』のような) トリッキーな長回しではなく、愚直な長回しである必要がある。三+一次元の時空が、カメラに切り取られることで二+一次元となって、次元が一つ引かれ、それにより超時空へと変質する。ここで問題になるのは時空であり、つまりワンカットの持続時間の長さだけでなく、そのカットに含まれる「空間」の大きさやその質も重要だ。

長い時間と大きな空間を含んだ一つのカットのなかに、多くの伏線がはり巡らされている。ここで伏線とは複線でもある。それは、回収されることで一枚の絵になったり、ひとつながりの因果的展開(物語)になったりするのではなく、多数の線が同時に走っていて、そのうちのある線があるところでは伏せられ、あるところでは顕れる。たくさんの線が、それぞれ異なるリズムで伏せられたり顕れたりする、そのような線たちを集めた太い束として、長くて広いワンカットがある。たくさんの細かいリズムによって構成される太いうねり。複数の線の共立がつくりだすのは統一的なパースペクティブではなく「うねり」であり、それによって時空の継起性(連続性)が解体される。継起的、連続的なワンカットであることが、むしろその秩序を緩めて、時空を超えたものを召喚する。

ワンカットの伏線=複線性を担う大きな要素として「音」がある。『凱里ブルース』は(当然のこととは言え)、映画がつくり出す時空において「音の構築」がいかに重要であるのかを思い知らされる映画でもある。視覚的なモンタージュよりもむしろ、音の構築こそが大きいのではないかとすら思わされる。極端なことを言えば、カメラを回しつづけてさえいれば、長いカットを撮ることはできる。しかしそれは空の器のようなもので、まずそこに、カメラのフレームを横切る(そして、カメラが撮っていないところにも存在する)人たちや物たちの複数の動きがつくりだされる必要がある。そして、それを下支えする地形の存在を考慮に入れなければならない。そこにさらに、音の構築によって生まれる、視覚によってつくられるものとは別の系の時空が重ねられる。長いワンカットをつくりあげるためには、この、恐ろしく複雑なダイヤグラムの計算が必要になるだろう。ビー・ガンの頭のなかは一体どうなっているのかと思う。というか、まさにこのダイヤグラムこそが三+一次元の時空を超える超時空のプロトタイプであり、ダイヤグラムをつくることが超時空を設計することなのだと思う。