2022/04/04

●お知らせ。『Jodo Journal 3 [特集:距離と創造性]』が、浄土複合のオンラインストアでは買えるようになったみたいです(書店への配本は4月中旬とのこと)。「桂離宮とバイロケーション(柄沢さんとの思い出とその作品について)」というテキストが掲載されています。柄沢祐輔桂離宮とエリー・デューリングについて書きました。

jodofukugoh.stores.jp

●『路地へ 中上健次の残したフィルム』(青山真治)をDVDで観た。『ユリイカ』と同じ年に公開された作品。この作品は、ある程度以上に熱心な中上健次の読者でないと、何をやっているのかよく分からないつくりになっている。

まず、三重県松阪駅からはじまって、国道42号線を車で走る、和歌山県新宮市までの長い道のりが延々と示される。これは中上が繰り返し小説に書き込んでいる、新宮という土地の閉ざされた性質、外に出るための通路が極めて限られているという事実を、車の移動のみを示しつづける退屈とも言える時間として体感的に提示している。松坂の市街地から、どんどん山深い道路に入り込み、ひたすら車は走り、そしてようやく集落のある土地へと至る。

新宮に着くと、旅人である井土紀州が新宮の土地を歩き回り、中上の小説を朗読する。ここで、観客には、中上健次の小説を読んだ記憶の層があることが要求される。選ばれている小説(テキスト)たちは、それぞれが「路地」に対する態度が異なっているものたちだ。

自然主義的に路地を描く『枯木灘』、路地を神話の舞台のように扱う『千年の愉楽』や『奇蹟』、路地が消滅した後の秋幸の迷走と停滞を描く『地の果て 至上の時』、路地を失った老婆たちが大型トレーラーで全国を旅することで路地を外へ向けて遍在化させようとする『日輪の翼』。新宮という土地で、既に失われた「路地」の近傍を訪ねながら、路地に対してそれぞれ異なる様々なアプローチを行った小説たちが、多角的に取り上げられ、引用される。しかしこの事実(アプローチの多様性)は、引用されているテキストだけを、いかに注意深く聞き取ろうとしても分かることではない。中上健次の多くの小説を読んでいる「記憶」が背景としてなければ、この作品が何をしようとしているのか分からないだろう。逆に言えば、ある程度以上に熱心な読者であれば、朗読されるテキストの背後に、とても大きな作品群の記憶がたちあがってくるだろう。

(中上の小説を読んだ記憶がなければ、たとえば、海のかんする描写が朗読された後に海の映像が示されたり、船で河口から海へ至る映像が示されつつ、河口から海へ至る小説の描写が朗読されるといった、テキストと映像とのかなり表面的な関連しか見いだせないだろう。)

そして、(「記憶」を引き出すためにごく一部が断片的に)引用され朗読される、多角的な方向からフィクション化されたテキストによる路地たちの挟まれるように、中上健次自身が(破壊されつつある)路地を撮影したフィルムが置かれる。これはフィクションではなく、中上自身がそこで生まれた、現実の「路地」を映し出す映像だ。とはいえこれも、むき出しの現実というわけではなく、中上自身の愛着を反映して切り取られたものだろう。それは魅力的であると同時に、どこにでもあるような、なんということもない風景でもある。このように、様々なアプローチによってたちあげられた「中上健次による路地」たちが響き合う場として、この作品がある。

この作品自体が、中上健次が撮影したという(それ自体としてはとりとめのない)「路地の映像」を召喚するための「段取り」であり、それを提示するための「額縁」のようなものなのだ。だがこの額縁は、中上健次の読者にしか作用しないような形でつくられている。

そしてこの作品は、(撮影された1999年の「現在」において)既に路地が存在しないこと、そして、路地を描いた作家、中上健次もまた、既に存在しないということ、その不在を、ノスタルジックに、感傷的に、歌い上げるような調子で終わる。ラストに流れる坂本龍一の曲は、それ自体としてとても美しいが、この映画が、ここまで感傷的な調子で終わるのはどうなのだろうかという疑問も残る。