2022/05/12

●『赤線地帯』(溝口健二)。『噂の女』の京都の置屋の空間の美しさに対して、『赤線地帯』の吉原の空間の徹底した美しくなさ。時事ネタの生々しさとリアリズムの優先。しかしそれでもミゾグチの映画になっているのは、やはりセットの造形によるところが大きいのではないか。水谷浩のつくるセットは、美的であることを避けながら、キッチュを強調するでもなく、空間の複雑性をより増していると思う。

(『噂の女』では、大部屋のような、太夫たちに共有されるプライベートなスペースがあり、それとは別に、二階に客を取るための部屋がある。対して、『赤線地帯』では、女性一人一人に個室のようなものが与えられ、そこがプライベートなスペースでもあり、客を取るための部屋でもある。)

『噂の女』にしても『赤線地帯』にしても、出てくる男のことごとくが最低なので、観ていてどんどん辛くなる(自分が責められているようで、あー、こめんなさいごめんなさい、という感じになる)。特に、木暮実千代の夫が、妻の仲間の一人(町田博子)が結婚して店を抜けられるという、その送別会の時に言う言葉がキツい。夫は、町田が「仕事」を辞められることを喜ぶあまり、「どんなことがあっても戻ってくるな」と励ます流れで、「あんなところでいつまでも働いている女は人間のクズだ」とまで、「あんなところで働いている妻」もいる「あんなところで働いている女たち」の集まりで言ってしまう。その時の木暮実千代の表情(子供をあやしつつ、横目で一瞬夫を見て、あきらめたように子供に視線を戻す)が、フレームの隅に映っている。うわー、最悪だ、と、いたたまれなくなる。悪気がないということほど悪いことはない、ということの見本のような場面。

(映画の表現の強さとは、この時の、フレームの隅っこに映っている木暮実千代のちょっとした視線の動きのようなところにあるのであって、熱演や怪演にあるのではないと思い知らされる。)

(似たような場面。売春禁止法不成立のニュースで上機嫌になった社長(?)が、政治の足りないところを自分たちが補っているのだ、と、気持ちよさそうに「演説」をする言葉を聞き流す、女たちのシラーッとシラケた空気。勝手に言っとけ…、反論したって決してこいつは理解しない、というかそもそも、自分たちは反論のための「言葉」を持たない…。「根本的にこの相手には通じない」。木暮実千代の夫に対する感情も同様のものだろう。絶望というのは、こういうことを言うのだろう、と思った。)

そして、結婚して店を抜けた町田博子は結局戻ってくる。借金で縛られて身体を売るしかないという状況よりも、「嫁」を安価な労働力としてしかみない「貧しい農家」の方がより耐え難いという、別の地獄が示される。自由に使える僅かな金と多少のシスターフッドがある分、普通の「家」よりも、吉原の店という「家」の方が、ちょっとだけマシという地獄。

(京マチ子にしても、「家」こそが地獄で、そこから逃げる先として吉原しかなかった。それが分かっているからこそ、町田博子の送別会で、餞別に、吉原に戻る「帰りのチケット」を渡す。)

(一方で、木暮実千代は「家(夫・子供)」のために店で働く。店は、木暮の家を経済的に支えるが、しかしそれだけでなく、家の外があること、店の女たちとの語らいの場があることが、病気の夫と顔をつきあわせてただ煮詰まっていくだけよりは、彼女にとって幾分かの救いになってはいないだろうか。)

(三益愛子は、「家(息子)」に執着するあまりに破綻する。そして、木暮実千代の未来が三益愛子でないとは言い切れない。)

(若尾文子だけが、この地獄からの脱出に成功する。しかしそれには、二人の男を破滅させるという代償が必要だった。そのくらいのことが出来なければ、この地獄からは出られない。)

この映画は、誰も心地よくさせないような「現実」を提示しているのだが、その目的が「社会的な告発」にあるのではないというところがとても重要だと思う。陳腐な言い方だが「世界」あるいは「人間」のありようを描くところに重きがおかれている。