2022/05/21

●アマゾンビデオで『海辺のポーリーヌ』(エリック・ロメール)を観た。この映画を観ている間じゅうずっと「紫陽花」という言葉(名)が出てこなくて、繰り返し紫陽花が現われるこの映画のなかで、あのありふれた、頻繁に見かける、あの花の名前がなぜ出てこないのか、あれはなんといったか…、と煩悶していた。

●十代ならではのとろっと鈍くさい感じのアマンダ・ラングレ(ポーリーヌ)と、鋭角的で完成された美しいフォルムのアリエル・ドンバール(マリオン)を対比的に配置するという狙いからして、分かり易すぎるくらい分かり易い。また、男性も、陽のパスカル・グレゴリー(アンリ)と陰のフェオドール・アトキン(ピエール)を分かり易く対比させる。アンリが魅力的(というか、活力に満ちている)ように見えるのは、彼が、彼の住む家の白い壁に映える、オレンジ系の赤い衣装をほとんどの場面で身につけているからだろう。対して、嫉妬と苛立ちに支配されるピエールは常に寒色系の服を着ている。

(ポーリーヌが眠っている、アンリの娘の部屋の壁には、マティスの「ルーマニア風のブラウスの女」---こちらは赤い背景に白いブラウスだが---のポスターが貼ってある。この絵の配色が、ここがアンリの家であることを示している。)

色彩的には、常に青系統の服を着ているポーリーヌは、寒色系のピエールに親和的だが、形態的には、開放的でとろっとした丸みを帯びたポーリーヌと、うつむき加減で鋭角的に切れ込んでいるピエールとは反発し合う。ポーリーヌはやはり、彼女と同様にとろっとした感じのフォルムをもつ十代のシモン・ド・ラ・ブロス(シルヴァン)がお似合いだろう。マリオンは、淡い暖色か、白または黒の衣装であることが多いが、彼女の場合は衣装の色というより、長くて豊かな金色の髪によって印象づけられる。

●前にも書いたが、ロメールにおいては、まず図式的配置があり、そこに具体物が代入される。たとえばこの映画においてロメールの欲望は、十代の少女の水着姿を撮ることではなく、アマンダ・ラングレ(ポーリーヌ)の横にアリエル・ドンバール(マリオン)を配置することにあり、二人への視線は等距離にある。そして、ロメールは女性にだけ興味があるわけでもない。彼の欲望はおそらく、具体物の様々な配置を試すことであり、関心は、具体物の配置によって図式がどのように(固有性を宿して)生き生きと動き出すのかというところにあると思う。特定の誰か(あるいは、特定の属性)に対する強い執着や思い入れ、フェティシズムはないように見える。

●この映画の特徴は、愛の言葉と愛の実践の不一致であり、誰もまともに対話しないというところにある。彼らは「わたしにとっての愛」を実践するばかりで、相手を愛する(受け入れる)ことがない。これだけみんなが喋りまくる映画だが、大人たちは皆、ただ自分の言いたいことを言うだけで、人の言うことを聞かない(他人を理解しようと務めない)。あるいは、他人の言動を見て、考えを改めるということをしない。他人によって自分が変わるということがない。自分の言いたいことだけを言い、自分の見たいものだけを見て、現実を都合良く解釈して行動する。そんな大人たちに対して、ただポーリーヌだけが、大人たちの行動や言葉を注意深く観察し、考え、そこから何かを判断し、何かを得ようとしている(映画の前半、ポーリーヌはほとんど喋らないで、大人の話を聞いているので、あまり目立たない)。

アンリは、自分の都合のためにシルヴァンを陥れ、彼とポーリーヌの仲を引き裂き、マリオンは、アンリとの関係を邪魔するピエールを厄介払いしたいというだけのために、ピエールをポーリーヌに近づけようとする。ピエールは、自分がマリオンに受け入れられない苛立ちから、ポーリーヌにシルヴァンのことを告げ口する。大人たちは、自分の都合で十代のカップル(ポーリーヌとシルヴァン)が潰れてしまっても平気なのだ。彼らは気持ちいいほどに自分勝手であり、その様はむしろ清々しいと言ってもいいと思う(この文はアイロニーではない)。彼らは誰も悪人ではなく、ただ自分の欲望にだけ忠実に行動する。

ラストの車のなかでの会話。お互い、自分にとって都合のいいことだけを信じましょうと提案するマリオンに、ポーリーヌは、この映画のなかで最も「いい顔」をする。ここで本当にいい顔(表情)をするポーリーヌは、もはや大人のマリオンの愚かさを包み込むように受け入れているようにみえる。