2022/07/21

●改めて『初恋の悪魔』の一話をTVerで観た。手数が多ければいいわけではないし、解像度が高ければいいというものではない、というのはまず前提としてあるが、それにしても、複数回観てはじめて気づくような、単位時間あたりの工夫とアイデアの量の多さに圧倒される。

坂元裕二の脚本では、一話を観ただけで先の展開を予測するのはほぼ不可能だし、予測できたとしてもそれに大した意味があるわけでもない。だけど、一話は、その後に大胆に読み替えられるべき原テキストのようなものとして、それ自身である程度完結し、自律した密度と完成度をもっている。『カルテット』もそうだったし、「大豆田とわ子…」もそうだった。これ以降、どんなに大きな地殻変動があったとしても、その変動は、最初に「一話」として提示されたものの諸関係の束から導きだされるものなのだ。『初恋の悪魔』の一話もまた、原石として、そこからさまざまな読み替えへと発展し、過酷な読み替えに耐え得るだけの、複雑な稠密さをもっているように感じられた。

●また、この作品で強く感じたのは、俳優による演技の創造性だ。俳優が、ドラマという構造体のなかのある役割を占める(演じる)ということをこえて、演技が、構造体の変容に積極的に作用しているようにみえる。『カルテット』や『大豆田…』がそうであったような、いわゆる演技巧者による的確な演技(的確な表象)というものから、もう一歩踏み越えようとしていると感じられる。

特に、柄本佑の演技からそれを感じる。通常のテレビドラマの演技のあり方から大きく外れているようにみえるセリフまわし(アクセントのつけ方へリズムの変化)や、姿勢、そして、時に大胆過ぎるくらいに大きく開けられる間。きわめてテンポの速いこのドラマで、しばしば、えっ、と思うくらい長く沈黙する。このニュアンスは、演出家の指示によって出るものではないように思われる。

また、柄本佑のエキセントリックな演技が全体のアンサンブルのなかで浮かないのは、仲野太賀が、きわめてオーソドックスに「上手い狂言回し」を演じて、適切にそれを受けているからではないか。林遣都の演技は、どうしても阿部寛を想起してしまうのだが(コメディ俳優としての阿部寛が偉大なのだ)、分かりやすい狂気(狂気のテンプレ)を示す人物像を、過剰と抑制、流暢さとつっかえつっかえ、を、不安定に行き来するような息遣い(後ろに引きつつ前に出る、前に出つつ後ろに引く、みたいな感じ)によって紋切り型を避けるような形にしているように見える。そして、松岡茉優の不安定なまなざしのありようは、人物像の適切な表象をこえたものとして、作品に独自のニュアンスを積極的に付与している。

それと、誰が観ても目に付くと思われる佐久間由衣の存在感。たんに、マッチョでイケイケな刑事課にそぐわない生真面目で不器用で線が細い人という「紋切り型の役割」を超え出るヤバさが零れ落ちるようだ。たとえば、『カルテット』の吉岡里帆は、その人物像を表現するような背景にある物語はほぼ語られない。ほんの一瞬、かなり貧乏そうな実家が出てくるくらいだ。背後にあるものが何も語られないにもかかわらず、表面に出ているその演技だけで、背景に部厚い何かがあることを感じさせる。このドラマの佐久間由衣も、画面にあらわれるだけですぐに(最初の、ベッドから顔を出す場面で既に)、あ、この人ヤバい、とわかるくらいの厚みを感じさせるだけの表現性がある(演技というか、衣装や髪型まで含めたものとしての表現性)。彼女は、(たとえばキャサリン・ヘップバーンのように)見事に転ぶのではなく、本当にどんくさく転び、どんくさく走る(どんくささを強調するように大き目のパンツを穿いている)。この。どんくさいことの表現性の強さ。

林遣都が、死んだ少年の残した「ぼくは花と喋ることができる」という動画を示し、タブレットをピンチアウトして動画を拡大させる。すると少年の病室の向かいにある病室の窓際にも、もう一つ別の花が存在することが分かる。仲野太賀が「え、この部屋って」と口にする。すると松岡茉優柄本佑を押しのけて病院の模型をのぞき込む。のぞき込む松岡茉優からカメラが模型へと移動すると、模型のなかにも小さい松岡茉優がいて、向かいの病室を見ている。この、模型のなかの松岡茉優のカットが、次に、その視線の先を示すかのようにして、タブレットに映し出されて拡大された動画(窓際の花)のカットにつながる。この部屋は、少年の死の前日に亡くなった少女の部屋だった(この少女の死が、少年の死の原因だったのだ)。

このモンタージュはけっこう驚くべきもので、観ていて、おっ、と声が出た。ここには実際の空間的つながりはない。このモンタージュは、松岡茉優の頭のなかで組み立てられたヴァーチャルな空間の成り立ちを示すものだ。松岡は、模型をのぞき込むことで、模型内の自分の視線を想定する。だが仮に、模型のなかに小さくなった松岡が実際にいたとしても、そこから見えるのは向かいの部屋(向かいの棟)の模型だ。模型が表現するのは、実際の病院の空間構造である。この、空間構造のしかるべき位置に、動画によって示された映像が代入される。

ここで松岡はまず、現実空間から抽象的な構造空間へと移行し、そこで生じる仮想的まなざしが、構造空間内のある位置に、タブレット上の映像を張り付ける。タブレット上の位置を持たない映像が、構造空間とその内部に位置する松岡のまなざしによって特定の位置を得る。構造空間のなかのしかるべき位置は、再びそれが現実空間に対応付けられることで、そこが、前日になくなった少女の部屋だと特定される。

つまり、(1)模型をのぞき込む松岡と模型内の小さい松岡とをシームレスにつなぐカット、と、(2)タブレット上に映し出された向かいの部屋の窓際の花のカット、という、たった二つの(現実空間ではつながらない)カットをつなぐだけで、現実空間から抽象空間への移行→抽象空間内の特定の位置にタブレット上の映像を紐づける→抽象空間内で成立した位置関係の構造を現実空間に対応させて参照する、という、複数の次元をまたいだ空間処理のプロセスを圧縮して表現している。この圧縮=ショートカットが、現実的で三次元的な物理空間の知覚とは異なる、ヴァーチャルな空間感覚を生み出す。

(厳密には、「抽象空間内で成立した位置関係の構造を現実空間に対応させて参照する」ためには、これにつづくこの後のプロセスが必要だが、このモンタージュは、先触れ的にこのプロセスまでをも含んでいるように感じられる。)

●会計課の窓が船みたいに丸かったり、総務部総務課の部屋の向こうに、もう一つ別の部屋が見えたり、生活安全課周辺の地下倉庫感とか、なにげなく空間がすごく凝ってつくってあるのは、日本テレビ水田伸生ドラマのよい特徴だと思う(『獣になれない私たち』も空間にすごく凝っていた。)。