2022/08/26

●『世界は時間でできている』(平井靖史)、第三章「過去を知る」より、引用、メモ。

(たとえば、デジカメは自分が保存しているイメージを見ているわけではないとは言えるが、では、デジカメをセンサーとした顔認識システムもまた、イメージを見ていないと言えるのか。あるいは、「言葉」からイメージを生成するAIは、自分が生成しているイメージを認識していない、と言い切れるのか。たとえばそこに、階層1的なことは起きていないのだろうか。とか考えながら読んだ。)

ベルクソンは何を問題としているか

《(…)ベルクソンが記憶の問題に見ているのは、ただの心理学ではないし、ただの時間存在論(客観的な過去の存在)でもない。過去について存在と認識をどうやって繋げるかという問題である。現に私たちは現在だけに閉じ込められておらず、時間展望や時間概念を持つことができてしまっている。だから、記憶の仕組みを説明する際に、記憶というものがどうやって時間を跨いで存続できるかを外から(いわば客観的に)説明するだけでは十分ではない。さらに加えて、そのように存続できていることを(外から眺める観察ではなく)当事者自身が知っているということを説明できなければならない。何かが客観的に存在しているかどうかと、その存在という事実がその存在者自身にとって認識されているかどうかは別問題だからである。》

●「痕跡説」の問題点

《(…)現代でもなお主流の位置を占めている考えとして「痕跡説」を紹介し、そのような問いの立て方のどこに問題があるのかを示すことで、ベルクソン的な記憶論への導入としたい。》

《[痕跡説による説明]五月一日のランチの際に、私の脳内の神経ネットワークのうちにある一定の痕跡が刻み込まれる。五月三日の時点でもその痕跡は残存している。そこで私は、その脳内の痕跡に何らかの働きかけをすることで、二日前のハンバーグランチを想起する。》

《現象面が記憶にどう関わるかを見るために、必要な範囲で記憶の分類を導入しておこう。2章で、現在の幅というものが短期記憶やワーキングメモリーというものにおよそ対応するという話をしておいたが、そうした現在の幅を超えた時間に及ぶ記憶---日常的に記憶と言う場合にはほぼこの意味で用いられるはずだ---のことを長期記憶と呼ぶ。次に、痕跡説の例で用いたような、過去の特定の一場面を想起する働きのことを、現代心理学では「エピソード記憶」と呼んで、同じ長期記憶に属する他の記憶から区別している。(…)他の長期記憶としては、「手続き型記憶」や「意味記憶」などがある。手続き型記憶は、水泳や車の運転など、「反復によって習得する身体動作の記憶」であり、意味記憶とは、地球の直径や歴史的事件など「言葉の一般的意味や本や人から学んだ知識」のことである。》

《エピソード想起において、私は、ただの事実命題や、一連の身体動作といった外から観察可能な出力をするのがゴールなのではなく、ハンバーグがどのような味わいであったのか、その日の自分がどんな気分であったのかといったことを心に思い描く、感じ直すことがゴールなのである。実際、想起対象が当人の過去の出来事であっても、単に事実として答えるだけであれば意味記憶に分類される。つまり、質的で現象的な側面が、エピソード記憶にとっては本質的なのだ。(…)もともとのオリジナルの体験、今の場合は五月一日のランチも当然現象経験である。つまり、エピソード記憶においては、入力も出力も現象経験なのである。だから、エピソード記憶の哲学的な説明は、この現象面の保存と再生を考えなければならない。》

《(…)この立場(痕跡説)では、オリジナルの現象経験をまずいったん脳内痕跡へと「記銘」し、未来への「保存」をこの物質基盤に委ねる。そして、ここから現象経験を「再生」することになる。要するに、痕跡説のもとでは、時間を通じた存続を許されるのは、物理基盤だけであって、体験の心的成分はその場で「蒸発」してしまうと(自覚のあるなしに関わらず)想定されている。ほとんどの荷物を出発地で下ろしてしまって、台座だけを運ぶ列車のようだ。到着点では台座を擦れば荷物が立ち現われる寸法だ。この最後の部分で、例の魔法のランプ問題に抵触していることがお分かりだろう。》

《(痕跡説は)手続き記憶なら問題ないことも合わせて確認しておこう。出力が身体運動だからだ。》

《(…)イメージの保存と再生ならば今時デジカメやビデオでも実装していることであって、脳にそれができない理由はないと考える人がいるかもしれない。しかし、デジカメにおいて「イメージ」と呼ばれているものは、画素の配列情報でしかない。デジカメ自身はそのイメージを見てはいない。》

《(…)百歩譲って、この神経群から心的イメージが産出され、私にハンバーグランチの光景が経ち現われたと仮定しよう。それでもやはり、このイメージ体験は過去について何も教えない。確かに、ハンバーグは今目の前にはないから、これが現在の現実でない何かだということは分かる。しかし、それはたんなる思いつきや反実仮想かもしれないし、未来予想図や幻覚かもしれない。それがこうしたもののどれでもなく、他ならぬ過去の体験を描写するものだとわかる要素は、イメージのどこをどう調べても出てこない。記憶を心的イメージに還元できないのはそのためである。》

●個人の体験が「それ自体において」保存される

《(…)ベルクソンはこうした包括的な意味での体験が、「それ自体」で保存されると考えている。「それ自体における保存」とは、「他のものに収納するのではない保存」ということであり、言い換えれば「媒介なしの保存」である。》

《(…)私たちの日常的な語法のなかでは、保存と収納は混同されがちだということである。貴重品は金庫に、ビールは冷蔵庫に、ファイルはUSBメモリに「保存する」。こうした慣習に従って痕跡説は、記憶は脳内に保存する、と述べるわけである。だが、その実は、「収納」しているだけだ。》

ベルクソンは指摘する。「あるものが別のものの中にあると示したところで、当のものの保存という現象を、それで少しも明らかにできたわけではない」(…)。》

《収納が空間的包含関係でしかない以上、時間的存続は初めから暗黙に前提にされていたことが露呈する。痕跡を脳に収納して満足できるのは、脳が存続することをあてにしているからである。だが実際には、収納だけでどこまで頑張っても、永久に時間的存続は説明できない。脳を身体に収納し、身体を大気中に収納しても、話は同じである(…)。ほどなく物質宇宙全体に収納することになるが、相変わらず現在から一歩も出ていない。空間的関係なのだから当然である。ところが宇宙全体にはもうそれより大きな収納先・媒体はないから、痕跡説も、遅かれ早かれ「それ自体における」存続を認めるほかなくなる。「媒体なし」の宇宙の存続だ。》

《そうなると(…)、それ自体において存続するのが個人の現象体験であるか、物質宇宙全体であるかという違いになる。ベルクソンの観点からすれば、私たちの記憶活動を説明するのに、物質宇宙全体の存続は必要でも十分でもない。理由はすでに述べた通りである。後者は過去の知を説明してくれないのだ。》

●過去は「時間構造」が保存する(「そのもの」であっても「そのまま」ではなく)

《例えば、階層1を思い出していただきたい。私たちの視覚にとっての最小時間単位である二〇ミリ秒の内に、例えば七五〇㎚の電磁波は八兆回もの振動を行っている。つまり、極微ではあれ「保持」が成り立っているわけだが、このとき電磁波の模造品を作って保持するなどということはしていない。実物の電磁波が保持されている。それらが一挙に与えられることで、クオリアが成り立つのだ。階層2でもそうだ。〇・五秒の間に「ミソファミレド」とメロディが流れたとする。最後の「ド」の音だけが感覚クオリアとして生起していて、「ミソファミレ」のクオリアは物理痕跡に置き換えられているということはない。それではメロディにならないからだ。やはり、実物のクオリアが保持され、それらが一続きの流れをなしている。(…)それゆえ、より巨視的な「階層3」の存在がもし正当化されるなら、記憶についても同様のことが当てはまらない理由はない(…)。過去の経験がすべて本物のまま保持され、途切れないまとまりをなすこと自体に、(私たち自身の思考の慣習以外の)障害はないのである。》

《(…)ただし、過去「そのもの」というのは、過去「そのまま」ということではない。仕組みが同じである以上、拡張は凝縮を伴い、それゆえ保存される体験も「変形」を免れないからである。だが、識別可能性が維持されるとすれば、指示対象の数的同一性(一つの同じものであること)は担保できる。》

《「保存」を時間構造が担うということは、以下に述べる「階層3」が実現されてさえいれば、それは自動的に行われる。そこに意図や努力は必要ない。(…)それに対して、エピソード記憶を「想起」するという働きは、多くの場合意図的・人為的な作業であり、精密でテクニカルな習熟が要求される新たな技能である(下の階層に対応する技能はない)。ここでは、脳が不可欠な役割を担う。》

《(…)包括的現象経験の保存を考えているベルクソンの理論では、脳内痕跡は記憶の本体ではなく記憶を絞り込む「検索キー」である。確かに、脳は想起を条件付け、取り出されるイメージを限定する。だが、脳神経はイメージではないし、イメージを「産出」もしない(グーグルが落ちれば検索できなくなるが、インターネットが消滅したわけではない。それと同じで、脳の障害は記憶へのアクセスに影響するが、記憶そのものが抹消されるわけではない。「時間を消す」ことなど誰にもできないからである)。》

●「過去性」の直接知。

《私たちは、過去の再現を意図しないイメージをいくらでも繰り広げることができる。(…)それらのどれとも違う特別な「何か」が、エピソード記憶にだけ備わっていなければならない(「想起は想像ではない」(…))。だが結果のイメージだけを比べてみても、本質的な違いはない。違いは、その手前のプロセスにあるはずだ。その何かを示すプレースホルダ―として「過去性」という言葉を用いよう。この過去性こそが私たちに、この現在と時続き(…)の現実でありながら、この現在ではない過ぎ去った時点の存在を告げ知らせてくれる。》

《私たちはエピソード想起という極めて繊細かつテクニカルな技能に習熟することで、時間構造が保存してくれた大量のリソースを分析し、その要素を配列して直線的な時間像というものを構築した。しかしもし仮に、その原点にこの過去性の直接知がなかったとすれば、こうした時間の構築は成し遂げられなかっただろう。》

つづく…