2022/09/30

●『初恋の悪魔』には、様々なレベルで、相容れないものの(中間状態のない、混じり合わないままでの)乖離と同居がある。つまり、相容れないものたちが、相容れないままでどちらも存在できる、そのための「場」の創出こそが問題となっていると思われる。

まず、松岡茉優の二つの人格の乖離と同居。ドラマ全体として、前半と後半とでの調子(トーン)の乖離と同居。そして、前半と後半を分つ五話での、山口果林の「優しいお婆さん(林との交流)」と「恐ろしい女性(監禁・私的制裁)」のモードの乖離と同居。弟から見た兄と、兄から見た弟の、乖離と同居。一人の登場人物の中でのキャラの乖離と同居(サイコパス伊藤英明と、泣き虫伊藤英明、など)。コメディ的なタッチとシリアスな主題との乖離と同居。そして、主に後半に顕著となった、緊迫(サスペンス)と弛緩(笑い)の乖離と同居などなど…。

松岡茉優の乖離した人格は、まず松岡1として仲野太賀とカップルを作り、仲野から、常に腰を低くして相手に「敵ではない」ことを示す世渡りモード(仲野1)とは根本的に異なる、激しく積極的に感情を表現するモード(仲野2)をひきだす。そして次に松岡2として林遣都カップルを作り、林から、孤独なロマン主義者としてのモード(林1)とは真逆とも見える、警察官としての社会的な責任と倫理を重んじるモード(林2)を引き出す。

そして、このドラマで最も相容れない二つの状態は、仲野-松岡1というカップルと、林-松岡2というカップルであろう。同時存在不可能な二つのカップルという相容れないものは、ドラマの前半と後半に分かれて同居しているとは言えるが、最終話では、この最も相容れない二つの状態を、どのようにして乖離したまま同居させられるのかが問題となっていたように思う。

物語的には、松岡2が(つまり、林-松岡2というカップルが)消えて、仲野-松岡1というカップルのみが残ることになって、相容れないものたちの同居は成立しなかったということになる(表面的には常識的な解だ)。だが、ここで持ち出されるロジックは、一度成立した恋愛関係は、その相手を失うことで消えるわけではない、というものだ。林-松岡2というカップルの成立によって林に刻みつけられたもの、あるいは、林から引き出された林2というモードは、松岡2が消えたとしても消えるわけではない。

つまり、松岡2が消え、林-松岡2というカップルが消えたとしても、林-松岡2というカップル(の相互作用)によってこの世界に「創発されたもの(=林2というモード)」は、林において(松岡2の存在に対して自律的に)存在しつづける。林は、松岡2に「りんごの剥き方」を教えることはできなかったが、林は既に「りんごの剥き方」に相当するものを松岡2から受け取っており、それは林の中に「自転車の乗り方」のように定着されている。

だから最終話の段階で、仲野-松岡1というカップルによってこの世界に創発されたもの(=仲野2というモード)と、林-松岡2というカップルによってこの世界に創発されたもの(=林2というモード)が、この世界に同居しているとは言える。この二つの「創発されたもの」の同時存在は、「松岡の分裂(松岡における乖離)」がなければ(どちらか一方しか)実現し得なかった。つまりここに、混じり合わない「乖離」の肯定的・積極的な意味(意義)が生じている。

(松岡茉優という一つの身体=場に、松岡1と松岡2とが乖離したまま同居していたからこそ、この世界の中での「(仲野-松岡1に由来する)仲野2」と「(林-松岡2に由来する)林2」の共存が可能になった。それが仲野と林との新たなバディー的関係の可能性―仲野1と林1では不可能だったかもしれないもの―を開くのだ。)

とはいえ、松岡2が消えたことは事実だ。菅生新樹たち四人に殺されてしまった少年や、予期せぬ事故で亡くなってしまった山口果林の娘や孫と同様に、松岡2自身は、理不尽にもこの世界から消えてしまったのだ。松岡2の消失は、このドラマのもう一つの主題、世界の背景となり、誰にも顧みられないまま消えた、あるいは居ないも同然として扱われている人たち(冤罪となったホームレスやインフルエンサーなど)の存在を意識するべきである、という主張の方に繋がっているのだと思う。

(例えば、途中までの仲野太賀はこの点について無自覚であったが、松岡2と対面し交流することを通じて自覚的になっていく。)