2022/11/25

●議論は、ディベートではないし、折衝でもない。ディベートは、勝ち負けを争う論破ゲームだ。折衝は、相容れない相手との間に妥協点を見出すための話し合いだ。議論には、勝ち負けはないし、結論(落としどころ)も必要ではない。異なる意見を持つ人が、議論をすることを通じて、それぞれが、議論の前にはなかったアイデアなり、視点なり、気づきなり、自論の盲点や弱点なり、を得るために行う。だから、議論においては、どちらが優位かを判定する必要もなく、一方が他方を説得する必要もない(「決定」はまた別のプロセスだ)。

相手の意見に説得されることもあるし、されないこともある。議論は、争いでもなく、折衝でもないので、説得されることは負けではないし、一致点を見出せなくても失敗ではない。事前になかった「新たな何か」が議論によって生まれるかどうかが重要になる。

議論ができる人は稀だ。理論的な思考ができるというのは最低条件でしかない。相手の意見に対して疑義を示すことが、相手への否定でもなく、攻撃でもないということを、互いに共有していないと、自由に発言できなくなる。上下関係とか師弟関係とかが介入すると面倒だ。意識せずとも湧いてきてしまう闘争心(相手に勝ちたいという気持ち)も障害となる。オーディエンスがいる場合は「ウケ」を狙ってしまうことを抑制することが難しい。有名人の場合は、自分のファンに対してカッコつけなくてはならないということもある。

それらの困難をクリアするには、事前に互いに相手を尊重し合える友好的な空気が成立していないと難しい(空気を読まなくてもいいという「空気」が必要)。意見の否定を人格の否定や攻撃と受け取らずに冷静に吟味し、闘争心やウケ狙いが発動するのを抑制することができる自由で柔軟な心を、友好的な空気が成立していない場でも持ち続けることは難しい。

だから、気軽に議論ができる相手がいる人はとても幸運なのだ。そしてその幸運は、けっこう努力してでも探す価値があると思う。