2022/11/28

●世界がこんな情勢だと、ガンダムがいっそうリアルに感じられる。逆に言えば、もはやガンダムを呑気にエンタメとして観ることができない。『水星の魔女』も生々しいし、『閃光のハサウェイ』も『Gのレコンギスタ』も生々しい。『ガンダムUC』も観直して考えなければならないように思えてくる。
だが、ガンダムに正解や解決法が描かれているわけではない。ニュータイプという概念に具体的な中身はない。ただそれは、既得権者の現状肯定(それはしばしば、「現実を見ろ」とか「脳内お花畑」とか言ってくる、一見まともな大人の現実主義者のような姿で現れる)に対する、繰り返し立ち上がる抵抗として描かれる。
とはいえ、現状肯定への抵抗は、多くの人にとってたんに迷惑だったりもする。たとえば、シャアは地球環境そのものを破壊しようとするし、ハサウェイは市民の犠牲も厭わないテロリストだ。ミネバは、多くの人にとって希望となり得るフル・フロンタルの提案を、凡庸であるとして軽視する。現状肯定派は腐っているが、それに抵抗する側も常に危うくて、先鋭化し、目的を見失い、自滅に突き進む。希望は必然的に失望に反転する。そして、さらに多くの人が不幸になる。
(ファースト・ガンダムにおいて、腐敗した地球連邦政府の支配に抵抗して自治を主張するジオン公国は、ザビ家が支配するファシズム国家だ。)
行くも地獄、戻るも地獄というなかで、なんとか最悪の事態を避けるようにバランスをとっていくしかない。こういう言い方はいかにも凡庸だが、凡庸である状態をキープすることが最も困難であるというのがガンダムの教えではないか。だが、ただ凡庸であるだけでは現状肯定派と変わらない。凡庸でありつつ、現状では規定できない(故に危険を内包する)、未知の新しいもの(ニュータイプ)に対して常に開かれてあれ、と。現実の解きがたい複雑さと、人間の度し難い愚かさを絶望的に示しつつ、ガンダムはそのことを繰り返し描き続けているように思う。