●iMacにはディスクドライブがついていなくて、安く買ったブルーレイドライブが不良品で、DVDが観られないと思っていたが、テキストを書くためだけに使っている、中古の古い古い東芝のノートパソコンならディスクドライブがついているから、DVDが観られることに気づいた。画質が良くないし、画面も小っちゃいけど。
●『ラ・ピラート』(ジャック・ドワイヨン)をDVDで。十代の頃に観て、「映画」というもののすごさを思い知らされた作品の一つ。今観てもすごかった。ぼくは、ドワイヨンはそこまで好きではないのだが、これは特別な作品。
まず、二人の女性の、体と心を総動員したガチのぶつかり合いがある。二人は、強く惹かれ合い、ぶつかっては弾き返され、求め合い、傷つけ合い、反発し合う。キリキリとした緊張と摩擦。いきなり冒頭から始まり、どこを切っても90分間常にピリピリ画面からはみ出すほどの緊迫が持続する濃厚さがドワイヨンなのだが、この映画では、中心にある女性二人の関係(+三角関係的な男性=一方の女性の夫)に加えて、全てを見通した上で黒幕的に振る舞う謎の少女と、夫の友人で何かを心に秘めて策略的に振る舞っているNo.5と呼ばれる五人目の男が登場する。この、半ば傍観者的であり、半ば状況に参加している、半メタ半プレイヤー的な二人の登場人物によって、ただひたすら煮詰まっていく関係の緊張の中に隙間が開いて、展開にダイナミックな流動性が生まれる。なんというか、どこまでもキリキリと追い詰め、煮詰めていくドワイヨン的な強さが維持されたまま、そこにリヴェット的な遊戯的で柔軟な展開可能性が加わる。これがこの映画が特別であることの理由だと思われる。
前半から中盤の展開では、中心にシリアスな三角関係があり、それに加えて、黒幕的に関係を操作しようとする謎の少女の謎の行動と、コメディリリーフ的に状況に関与するNo.5という構図で展開する。しかし、終盤になると、半ば傍観者的と思われた二人の人物もまた、それなりにシリアスに状況に参与するようになり、三角関係と、それを半ば外側から操作しようとする二人の人物という構図から、三つの、質の異なる三角関係の重なり合いのような形に推移していく。それにより、個々の項たちの準列組み合わせ的な関係の推移も描かれるようになる。このことで、ある程度の遊戯的柔軟性を残したまま、前、中盤よりもさらに緊張が高くなっていく。
あくまでも中心にあるのは、女性二人の関係の強烈さだが、そこに、直情的な第三項として夫が関与し、策略的な第三項としてNo.5が関与し、そして、最も操作的、メタ的な位置にいる第三項と思われた謎の少女が、突然、最も直情的、直接的関与を行うことによって関係を破綻させて映画が閉じられる。
余裕のない三人に対して、余裕ある位置を確保していた少女とNo.5だが(それによって遊戯的柔軟性が確保されていた)、終盤には彼らもまた徐々に切羽詰まってくるわけだが、三角関係の(第三項としての)ありようがそれぞれ異なるので、三つの三角関係がそれぞれに煮詰まって濃くなってきても、それぞれの「濃さの質」が違っていて、同じ濃さでべっとりと一色で塗り尽くされることがない。それぞれの濃さの「質」の違いによって落差が生まれ、展開が転がる。遊戯的柔軟さは維持される。このことが、この作品を傑作たらしめているのだと思う。
●あと、夫がイギリス人で、それ以外の四人はフランス人で、基本、フランス語の映画なのだが、夫だけ英語でセリフを喋る。翻訳の過程なしに、例えば、女がフランス語で激しく夫を責め、それに直接、夫が英語でがなりたてて応える。ぼんやりと字幕だけ見ていると五人が同一言語で話しているように見えるように、フランス語と英語の間で自然に対話が成り立っている。このような妙なレイヤーのずらし方(ブランクの仕込み方)もまた、この映画の濃さや激しさを、ベタ一色ではないものにしていると思う。