2022/12/18

●地下アイドルの世界のいいところは、M-1芥川賞も総選挙もないところだと思う。

コンクールや賞や順位づけ(点数づけ)は、プロモーションの方法としてとてもわかりやすくて、話題にも乗りやすく、関心もひきやすく、効率も良いので、ついつい安易にそういう企画をたててしまいがちだが、「作品」というのはそもそも、そのような価値観に対する抵抗としてあるのではないかと思う。

実用品にかんしては、例えば「星いくつ」みたいなレビューはとても有効で便利だが、作品にかんしては、ぼくは基本的にはそれをしない。

(作品にも「商品」としての側面はあり、それを完全に無くすことはできないので、完璧に拒否できているわけではなく、場合によっては妥協してしまうときもあるし、そこはプラクティカルに割り切っているが、「基本的」にそれは違うと思っている。)

これは、「みんなちがって、みんないい」ということとは微妙に違う。作品にかんしては、明らかに「良い作品」があり「よくない(退屈な、凡庸な、暴力的な、未熟な、中途半端な、雑な、空回りした、間違った)作品」がある。これは決定的にある。

「良い」にも色々ある。面白い、興味深い、好きだ、稀有である、アクチュアルだ、クリティカルである、時流に乗っている、挑発的だ、しみじみと良い、新しい、完璧だ、強い、深い、自由を感じる…などなど。それぞれの要素にかんして、悪さの度合い、良さの度合いの違いもあるだろう。だが、これらの、それぞれに質の異なる「悪さ」や「良さ」を、同一平面に並べて、これが優勝で、これが最下位だとか、どちらも良いけど、これが92点ならこちらは86点でこちらの勝ちだとか、そういうことをするのには大きな抵抗を感じる。

(スポーツやゲームのように、同一のルール、同一の条件で競争しているわけではない。)

例えばベストテンというのは、それを選ぶ人の自己表現(私はこのような作品を評価する思想・傾向性・好みを持っている)としてなら理解できるが、「好きなものを集めた私の部屋」みたいなもので、それは別に作品の評価ではない。そもそも「ベストテン」という枠組みを受け入れてしまっている時点で、自己表現としても型にはまったものだ。

(自分と似た傾向を持った人の選ぶベストテンはとても良いガイドになるという効能はあるだろう。)

(場を盛り上げる定番ネタとして、お遊びとしての「ベストテン」という「型」を否定するつもりはないが、それはあくまで「お遊びの定番ネタ」でしかないという自覚のもとでなされるべきだとは思う。)

(社会に存在し、機能する、さまざまな「型」について、ぼくはそれを否定しているのでも拒否しているのでもない、それどころか必要なものだと思っているが、少なくとも作品は、「型」を無条件に受け入れるのではなく、「型」に対する緊張関係はもつべきだと思う。)

A、B、C、Dという四つの作品があり、AとBが良いもので、CとDはあまり良くないとする。これがコンクールだとすると、Aが92点でBが89点で、Aが優勝とか、そういうことになる。それに対して、いやいや、これこれこういう側面からみれば、Aが87点でBが89点となってBが優勝すべきだとかいう反論が出て、それによって話題となり盛り上がるというのが、コンクールの効能だろう。コンクールの審査員は、受賞者を決める権力者であると同時に、叩かれるための人柱でもある。

(つまり、「コンクールを叩く人」もコンクールの一部に過ぎない。)

だがぼくには、このような対抗言説的盛り上がりというものが、一つの型にハマってしまう罠のように感じられる。

AとBとが、どちらも優れた作品であるならば、どちらがより優れていると言う必要があるのか。それは結局、それを評する人の視点や傾向によって左右される恣意的な判断にしかならないのではないか。その論争に、目玉焼きには醤油派かソース派かという論争以上の意味があるのだろうか(論争=盛上がりの自己目的化)。BよりもAの方を刺激的に感じるという人が、Aについて、その可能性や限界や問題点について積極的に語り、AよりもBの方がしっくりくるという人が、Bについて積極的に語れば、それでいいというか、その方がいいのではないか。

重要なのは、AとBのどちらがより優れているのかではなく、AとBとの両立可能性と、それぞれの持続可能性の方だ。

だが、AとBの二つしかないならば両方優勝でもよいが、それが100も200もあった場合はどうか。これは結局、環境と持続可能性の話になる。カンブリア紀に現れた種の爆発的な多様性を持続可能なものとして受け入れるだけの資源は地球環境にはなく、ほとんどの種は絶滅した。同様に、ある社会的、文化的な環境が、どの程度に多様な、そしてどの程度の「数」の、「良い作品」やそれを作る作家を持続可能なものとして受け入れることができるのかが問われることになる。

そして、できるだけ多くの「良い作品」を持続可能なものとする環境の育むためには、コンクールや順位づけ(点数づけ)のような、エリート主義的で排他的な形式はあまり望ましいものではないと、ぼくは考える。

実力主義にもエリート主義にも走らない、日本の地下アイドルのありようは、この点でとても貴重なものであると思う。