2022/12/30

●CDを聴いていた(90年代ノスタルジー)。



●メモ。柄沢祐輔による磯崎新

ekrits.jp

《「プロセス・プランニング論」において、磯崎新は動的に変化を遂げてゆく流動的なプロセスを提示し、その動的なあり方とダイナミズムを内包しつつ、最後にその動的で流動的な変化を遂げてゆくプロセスが「切断」される様を描き記した。そもそもは敷地条件が決定しているのみで、予算も規模も決定せず、一切が流動的であるという困難な条件下におかれた磯崎新が、独自の手法で、大分県立図書館の建築を組み立てるために編み出した苦肉の策とも言える方法論であるが、動的な諸条件の中から機能を導き出し、その機能を類型化することによってエレメントを生み出し、そのエレメントの相互の関係性をスケルトンとして定義し、それらの様態がプロセスに応じて刻々と変化をしてゆく様子を「プロセスの建築」と呼びならわし、これらは一切が流動的で可変的な条件と状況に応じて変化を遂げるプロセスそのものであるが、しかし最後の一瞬においてそのプロセスが「切断」されることにより建築物としての具現化・現実化を果たすという独自の建築の創作のあり方が指し示されている。》

《ここで重要なのは、条件に応じて自在に対応し流動的に変化を遂げてゆくプロセスが「切断」されることによって、初めて建築として具現化されるという視点が明確に打ち出されている点である。この「切断」のイメージは、当時のメタボリズムの建築家たちの共通した発想と比較して考えるとその独自性が顕著に浮かび上がるだろう。》

《(…)ここで提出された「切断」のイメージに裏打ちされた磯崎新の創作の思考と論理が、エリー・デューリングの唱える「プロトタイプ論」における「切断」に基づく創作の論理、イメージとまったく同様のものであるという事実である。あたかもメタボリズムの建築家達の将来への無限の成長を志向した思考の限界を見定めるかのようにして、磯崎新は「切断」のイメージを提出し、エリー・デューリングもまた「プロトタイプ論」において流動変化する無限のネットワークの「切断」のイメージを提出するのだ。》

《設計とは、とどのつまり無限に変化を遂げてゆく流動的なネットワークを、「切断」するという行為に他ならないのではないか。さらにこの「切断」という行為を突き詰めるならば、その根拠は、おそらくは自らの身体感覚のみを頼りにして、多様に変化を遂げてゆく流動的な状況の中で、その無限ともいえる膨大な可能な選択肢の中からたった一つの可能性を、選び出す作業に他ならなくなる。私たちは、磯崎新の「プロセス・プランニング論」に、その創作の最も重要な契機として、そのような自らの身体感覚を介しての「切断」の瞬間が、生々しく刻印されているのを、読み解くことが可能だろう。》

磯崎新柄沢祐輔

db.10plus1.jp

《磯崎さんは、主体が存在していないのに、主体が存在しているふりをしている当時の芸術家とそれを取り巻く状況を批判されようとしていたのだと思いますが、そこで提出された手法論は、アルゴリズム的な思考方法と通底しています。もっといえば、アルゴリズムにすべてを委ねることによって、パラメータの乱舞──これは近代的自我の投影と言ってもいいし、巨匠スケッチ的なものといってもいい──を抹消して、アルゴリズムそのものを純粋に可視化しようとしたということだと言えると思うんです。》

《自動生成システムであるアルゴリルズムにすべてを還元したうえで、最終的に身体がそれを切断するわけですね。そこでは身体の位置や状態、あるいは観測者の位置やスケールが問題になると思うんです。理論物理学で問題になる観測問題とは言ってしまえばそのような問題だと思うのです。》