2023/02/05

●『不穏な熱帯』(里見龍樹)で言及されていたマリリン・ストラザーン「歴史のモノたち」(「現代思想」2016年3月臨時増刊号)を読んだ。前に読もうとした形跡がある(書き込みが途中まである)が、その時は断念したようだ。確かに、『不穏な熱帯』に書かれていたサーリンズの議論の詳細が分からないと、このテキストの冒頭が「何を問題にしているか」がまずよく分からないだろうと思った。今回は、『不穏な熱帯』や「マリリン・ストラザーンにおける〈イメージの方法〉」を既に読んでいるのですんなり読めた。とはいえ、ストラザーンの議論はかなりややこしい。そしてとても面白い。

●サーリンズの議論とは、1779年にハワイ島に来航したクック船団のジェームズ・クックが現地の人々に殺された事件の原因について、《まったく偶然にマカヒキ祭の文化的構造に合致したかたちで行動したがために、クックはノロ神の役割を引き受けることになっ》て殺された(『不穏な熱帯』)、と解釈するもの。つまり、偶発的な出来事=一回的な歴史(クックの来航、彼の仕草)が、この島で反復されている文化的構造(コード)によって読み取られた(解釈された)ことによって起こった事件だ、と。以下は「歴史のモノたち」から引用。

《「構造」は、いわば枠組みの隠喩(フレーム・メタファー)である。この枠組みの内部では、出来事は文化的に解釈された偶発事とみなされる。同様に、モノは意味をもつとされるが、その意味は、モノに意味を付与する体系を用いた、人類学的な説明によって明らかにされなければならない。偶発事は、構造を反映したり、それを表現する関係にあるというよりも、むしろ構造によってうまく処理しえないものである。しかし、それにもかかわらず、偶発事は、観察者(ハワイ人や西欧人)にとって、コンテクストを参照することなしには説明されえない。したがって、自然の偶発事から、文化的な出来事が絶え間なく創り出されることになる。そして今度は、人類学者による構造の説明が、これらの解釈(文化)を体系的な人類学的知識にとっての正確な事実、素材として受け取る。》

●しかしストラザーンはこのような保守的コンテクスト主義(偶発事はコンテキストによって「出来事」となる)には批判的で、「イメージ」を伴う「パフォーマンスとしての出来事」という概念を示す。この批判は(常識的な)時間や空間の構造の変容までを要請する。

《一方に、偶然かつ特異で、ある時点に固有で、自然に偶発的に起こったこと(occurrence)とみなされる出来事がある。その出来事は、歴史的(文化的)コンテクストに位置づけて説明されねばならない。つまり、時間が進行するなかで、ある出来事が別の出来事に続いて起こって見えるように、複数の出来事が関係づけられ、並べられることになる。》

《他方で、パフォーマンスとみなされる出来事は、その効果によって知られる。パフォーマンスとしての出来事は、それが自らの内に含むもの、それが隠したり明らかにしたりする諸形態(forms)に注目して理解され、さらに[パフォーマンスに反応する]観衆の行為を通して記憶に刻まれる。諸形態の継起(…)は、[ある形態による別の形態の]置換の継起であり、そこでは各々の形態が、先行する形態の代替物となる。したがって、ある意味で特定の形態はそれに先行する形態を含んでおり、同様に、それが観衆に及ぼすであろう効果を含んでいる。この意味で、すべてのイメージは新しいイメージである。結果、時間は複数の偶発事を並べた直線としては把握されない。時間は、過去と未来を同時に喚起するイメージの力のうちにある。》

《類似した発想で、空間は複数の点の間の広がりではなく、イメージの観察者に此方と彼方、自己と他者の双方を同時に喚起するイメージの力のうちにあるといえる。そこで問題となるのは、いかにして人々は、他者の視点を、それが自分たち自身についての知識をもたらすようなかたちで、把握することができるかである。》

●新しい「偶発事」を変わらない「構造」に落とし込むのではなく、その都度新たに自分を驚かせること(イメージ)。

メラネシアの世界では、人々は自分たち自身を不断に驚かせている。そして、彼らを驚かすのは、彼ら自身が創出するパフォーマンスや人工物である。》

《ハーゲンの男性らが儀礼的交換の機会に、自らの身体装飾によって自分自身を驚かすように、人々は集合的な活動の能力によって自らを驚かせる。彼らの[集合的な活動の]実演は、彼らが自らの内に抱合しようとした力を明示しており、過去の成功を問うものでもあると同時に、未来の兆しでもある(…)。我々はここで、儀礼は決して単なる反復ではない、というブルース・カブフェラー(…)が他地域から得た知見を引いてもよい。行為と発話は常に意味を再構成する。ゆえに、何かを行う標準的なやり方や伝統的なやり方はあるかもしれないが、最終的な配置は、予期されざるものに開かれている。すなわち、パフォーマンスは予期されえないのだ。なぜなら、イメージはそれが構成される瞬間まで、その姿を顕わさないからである。》

●「力」の出所について。「彼ら」は決して「西欧人」の圧倒的な力を恐れていたのではない(ここ、すごく面白い、ちょっと郡司ペギオ的でもある)。

メラネシア人の側について説明しなければならないことは、彼らが西欧人を精霊とみなす一方で、同時に(…)西欧人が人々にとっては驚異的な技術だろうと考えたものを、平然と受け入れた点である。》

《(…)我々は彼らの反応を、強力な西欧人に対する恐怖と単純に捉えるべきではない。筆者の推測では、人々の恐怖を当初構成していたものは、彼ら自身の力---極めて驚くべき行為を遂行=上演するために彼らが行ったこと---のほうにあったか、あるいは彼らが特定のビッグ・マンや近接集団に帰する力にあった。》

《ある意味では、観衆も行為者である。パフォーマンスは観衆によって完成させられる(…)。観衆となる人々は、受動的、あるいは能動的な役割を交互に演ずる。メラネシアの世界観では、しばしば行為者や活動の担い手とは別に、その行為を強いる人格(あるいは偶発事)が存在する。多くの父系社会では、母方親族を「原因」として支払いがなされる。母方親族は自分たちの娘/姉妹の子どもに健康を授けることによって、受贈者として支払いを受ける。この場合、行為をとることで威信を得る能動的な行為者は、父方親族に属する贈与者である。贈与者は、支払いを成し遂げることにおいて自らの力を示す。同様に、西欧人が、自らを人々の反応の原因として提示した限りにおいて、行為する能力は反応する人々の側にあった。西欧人は、彼らのすべての活動のそれ自体は動かぬ原因であったのである。》

●ややこしいのだが、「自分たちの娘/姉妹の子どもに健康を授ける」ことのできる原因(能力)は「母方親族」にあるのだが(子どもに健康を授けるための行為を実際に行うのは「母方親族」なのだが)、その能力を持つ者たちに対して能力の効果を(イメージを受ける観衆として)認めて、効果に対する「支払い」を行うことによって、その能力の「能動性(力の出所)」は「父方の親族」に属することになる(能動性はイメージを介して観衆の側に移行する)、という解釈でいいのだろうか。同様に、「圧倒的な力」の原因は「西欧人」にあるのだが、その圧倒的な力を「効果」として受け止めること(そのイメージを認めること)のできる「観衆」であるメラネシアの側の方にこそ、その「力」の能動性が認められる、ということか。この、受動と能動の交差的交換はとても面白く、興奮を感じる。

●ストラザーンの「イメージ」論はとても面白い。

《(…)重要なのは、見せ物が日々の出来事から切り離されており、その開示の瞬間まで隠され続けた動機の結果であるということだ。この意味でパフォーマンスも、それ自体として捉えられなければならない。それは予期されない限りにおいて効果をもつのだ。》

《それ自体として把握された人工物、あるいはパフォーマンスは、イメージとして捉えられる。イメージはコンテクストから全く外れて存在する。あるいは逆にそれは、それ自身に先行するコンテクストを含んでいる。問題はすべて、パフォーマンスによってもたらされる結果とは何か、その将来の帰結とは、次に何が明らかにされるのか、詰まるところ、その未来の効果にあった。それゆえに、西欧人の到来は「社会的コンテクスト」に位置づけられる必要がなかった。メラネシア人はそれを「理解」しなくともよかったからだ。したがって、メラネシア人は西欧人の到来に関する、より広い文化的・社会的な条件を考慮する必要もなかった。なぜなら、彼らはそれを「説明する」強迫観念にとらわれていないからだ。》

(つづく)