2023/02/19

●思いつき。これはかなり捻ったというか、逸脱した読み方になってしまうが、もし、ハーマンの中に「断絶」を強くみるのだとしたら、オブジェクトAとオブジェクトBとの関係、あるいは、実在的オブジェクトと感覚的オブジェクトの間の関係にみるのではなく(そこには魅惑・没頭といった「代替因果」が働いている)、自己(実在的オブジェクト)の自己自身(実在的オブジェクト)に対する関係が「脱去(退隠)」となっているところにこそ、見出されるべきではないか。

(素直に読めば、実在的オブジェクト間の関係が「脱去(退隠)」となっているのは、オブジェクトAとオブジェクトBとの間のアクセス可能性が、互いに対して脱去しているということだ。しかしそれらは、感覚的オブジェクトを通じて代替因果によって繋がっている。だけど、自己に対する自己の関係もまた、感覚的オブジェクトを通した代替因果でしかないとすれば、自己に対する自己の直接的な関係=内的経験の生成が成り立たないことになる。)

実はハーマンにおいて最も強く断絶させられているのは、自己の自己に対する関係であり、アクセスである、のではないかと。自己と他者、自己とモノよりも、自己に対する自己の距離の方が遠い。「わたし」は「わたし自身」から脱去しており、「わたしの内的体験」に対して遠く隔てられているという感覚。

(例えば、ストラザーン=里見が描くメラネシアの人々においては、自己の内的能力(潜在的可能性)は、「自己像=イメージ」の変化が他者によって認められるということを通じて初めて、自己に知らされる。同様に、実在的オブジェクトAが自身の内的経験を自己に対して「意識化」できるのは、経験による感覚的オブジェクトAの変化が実在的オブジェクトBに対して代替因果的に作用し、それによって変化した感覚的オブジェクトBを通じて実在的オブジェクトAに知らされるという―-他者やモノとの関係よりもさらに遠い-―迂回路が必要になる、ということになるのではないか。)

(もちろん、そのような迂回路を経ない直接的経験=自己観照は存在するはずだが、それは地と溶け合った図ならざる図であるから、意識化されない、のではないか。とはいえ、意識化されない自己観照こそが生そのものなのかもしれないが。われわれは、意識化されることのない直接的自己観照からの遠い響きを、かろうじてなんとか嗅ぎつけようとしている。このような「直接性の遠さ」の感覚は、ぼくにとっては親しいものだ。)