2023/02/26

樫村晴香「人類最後の贈与 オイディープスとスピンクスの邂逅」(「群像」2023年2月号)を、ともかく、一度通読した。樫村さんがスピンクスについて直接言及するのは、おそらくはじめてではないか。

ここで問題となっているのは、スピンクスそのものというより、(サブタイトル通りに)オイディープスとスピンクスとの出会いという出来事であり、その前段(あるいは後段)としてのアンティゴネーという存在であり、それらを書いたソポクレースという作家の特異性ということになるだろう。

そしてこのテキストが全体として示しているのは、「人間」と「死」についてのきわめて苛烈な思考であると感じた。

(以下、自分の理解のための要約的引用。)

ソポクレースにとって時間とは「過去」である

《(…)彼が「二日という日(明日)はなく、今日がどう終わるかさえわからない」というほど、未来を予知不能だと見なしたからである。この予知不能性は、近代のように逆に、個人の自由意志や選択可能性の能動感をもたらす、ことにはならなかった。それは彼が明日のことは神でさえも絶対に分からないと確信したからであり、その根底には戦争=政治の現実的体験がある。》

《(…)彼にとって時間とは「過去」と同値である。だが、この絶対的受動性の感覚、正確には受動/能動の分節不在、これは言い換えれば、ある種力学的な「絶対的平等性」と言ってもいいが、それは彼に「人間」という概念/普遍性への確信をもたらした。これは同時に「民主主義」という感情でもある。より良く知る者、未来を担保にする者など存在しえないという信念(…)》。

●この「時間=過去」という感覚はアンティゴネーという、普遍を志向する「人間」を生む(かつて過去に思考・存在であった死体を「人間であった」と再登記する行為としての「葬儀」への固執)

《(…)『アンティゴネー』を素直に読めば、クレオーンは慣行に従うだけの平凡な小物であり、正義/法/普遍性を画然と主張し、それを行動の「原理」とするのは、専らアンティゴネーの側である。(…)彼女は婚約者ハイモーンを微塵も愛していないし、彼女の相貌は全体に黒ずんだ印象で、荒々しく、頑固で獰猛で、男性的である。そして彼女は、愛でも尊厳でもなく、兄弟の「葬儀」の実行という、極めて特殊な一行為のみに徹底してこだわっており、この実行のみが、彼女の「法・普遍」の中身をなす。》

アンティゴネーには愛も美もないが、崇高さ、というより正しくは高貴、威厳、確信、傲慢、厳威があり、他方でいかなる装飾も欠いた、あられもない=丸裸の死、恐怖でさえない死の実在がある。「崇高」とは死と隣り合わせにあり、隣り合わせだと思わせ、そのことで死を隠蔽する機制であり、ラカンはそれを「美」と定義し、ヘーゲル以降彼に比肩・凌駕し得る唯一のアンティゴネー論『精神分析の倫理』を「美」の記述から始めたが、アンティゴネーに崇高/美はなく、あるのは純然たる悲劇/悲惨/慟哭であって、彼女の威厳は死から備給を受けていない。》

アンティゴネーは兄の「埋葬」に拘泥し、ここに彼女の「人間」であることの全てがあり、この埋葬への執着はソポクレースの殆どの作品に共通し、エーレクトラーの母と従叔父への殺害の執念も、本質的には父の葬儀の遂行の一環である。(…)アンティゴネーによる葬儀(それは僅かな土塊を死体にかけるだけである)であれ、エーレクトラーの殺害であれ、極めて短い一瞬の時間に遂行される「人間」的営為であり、かつて思考・存在としてあった眼下の死体を再度象徴・意思・存在に再登録し「人間である」と分節し、そのことで自らもまた、同類-人間に登記する。しかしこの埋葬という営為/分節は、あまりに短く切り詰められた時間であり、人間/動物、言語/反復、思考/強迫の狭間を揺れ動き、意思と思考と人間を、反復強迫と肉体的常同行動と動物に押し戻し、またそこから言葉と人間が生成する原初点を想起させる。》

アンティゴネーという存在/問題は、その父、オイディープスを創作することを、ソポクレースに強いる(アンティゴネーが「視覚」の場にいるのに対し、オイディープスは「声」としてある)。

アンティゴネーの威信や確信=行動は、彼女の「血筋」、オイディープス王の娘という「時系・地点」に確実に根を持ち、しかしそれは王/超自我からの倫理的伝播というより、超自我(=象徴・権力の内的奴隷)の手前/彼方に(非-)存在したオイディープスという、それ自体超自我/系図を欠いた王の尊厳-主権、そして追放-零落-消滅の、痙攣的、物理的な反復/召喚なのである。》

アンティゴネーは悲劇の主人公=演者であり自我ではないが、しかし確かに「父/前史」を有する「人間」であり、これは自我でもなく人間でさえないオイディープスとは異なっている。(…)アンティゴネーその人が激しい動揺/感涙を引き起こすのは(…観客が)彼女=演者を、自分自身の「存在」とするからであり、つまり模造=鏡像となすからである。このことが彼女に「視覚的」な相貌・位相を与え、彼女を視覚の領野に置き、彼女をして死を「永遠の闇/感覚の不在」として恐怖させる。》

アンティゴネーははっきりした視覚的相貌を持ち、人間の側で葬儀/演技を共感的に欲望して、万人の「存在/演者」となりうるが、オイディープスは視覚の場におらず、人間の側=行為の側ではなく、ある意味で人間・行為を受け取る側、絶対的受動性、すなわち記号の側にあり、人は彼を自分の「存在」とすることはできず、人はオイディープスと全く無関係であるか(確かにこの作品に「感動」するのは難しい)、あるいは全く無媒介に、つまり視覚像や情景を経ずしてオイディープス自身である、オイディープスと完全同一となる、すなわち意識、思考、激情/怒り/哀動、王/放浪者、純粋普遍の(非-)人間であるしかない。》

《(…)オイディープスの生成のシークエンスは、オイディープスがその存在の最後に「この世のものとは思われない」仕方で消失し、アテ―ナイ王テーセウスに秘儀を授ける終局---ここでも鍵となるのは「声」であり、声へと遅れることなく前方に定位する、つまり声を聞き導かれる「存在/人間」でなく「声そのもの」すなわち「思惟/観念/超自我」化した(非-)存在としての「真の王/真の(超-)人間」へり転生が享受される》

《(…)オイディープスという「王権性の未存下に生じた最初の王/人間」、「父を持たない最初の超自我、あるいは自我のない超自我」、「視覚より聴覚に先んじ、世界を見ることより聞くことに長け、闇を恐れず声と等しい速さの者」、「運命を信じるのではなく運命そのものである---すなわち未来を恐れず/持たず、純粋に自ら自身であるこの現在/現存在」つまり史上初の「絶対的人間(=非人間)」(…)》

●スピンクス、声、翻訳、怨嗟。

《スピンクスはアフリカを起源とするが、オイディープスが出会ったのはギリシャのスピンクスであり(…)、その相貌はトワイヤンが描いた顔面が暗く深い穴の獅子のように、虚ろで不確かで恣意的である。スピンクスの姿が定かでないのは、その存在が視覚と空間的定住でなく、声から逆算され、構成されているからだろう。そして声は、空間から切り取られると、始点/終点が相互転移する鎖列となり、時間を失う。しかしそれが何かを「問いかけ」、「人間である」という応答、ないしは「人間」という原-概念を生成し、消滅したのは確かなように思われる。》

《(…)おそらくネルヴァルの言う、彼女は「存在の至高の戸口」で何かを何かに翻訳している、「他者」を経ずして、私たちが知らないことが知らないことに変換されている、という表現が、最も慎みがあり奥深い。》

《スピンクスは(…)、絶え間なくエジプトに来襲するヌビア軍の猖獗であり、そして何より、テーバイのラーイオスによる美少年クリューシッポス(ガニュメ―デーズの異形)の誘拐・強姦への、復讐する女の怨嗟である。この少年愛(クリューシッポスは青年であり、これはペドフィリアとは異なる)による剥奪と怨念は、スピンクス到来の不可分な要素であり、彼女に女の相貌を与える基盤である。》

《スピンクスは異界の様相を持つとしても、エリーニューエスや魔女のように半神的魔界的起源を持たない。魔女は例えばマクベスの欲望/恐怖の精神分析的相関項だが、スピンクスはオイディープスとは何の関係もなく、それは彼の「欲望」ではなく「運命」として、偶然現れ彼らは出会う―つまり「抑圧」に起源をもたない。他方でスピンクスは獰猛だが、それはネメアのライオンやトラーキアの人喰い雌馬のような動物的-物理的暴力ではなく、ラーイオスの同性愛という、心理的起源をもつ「憎悪」である。オイディープスは自分の「外側」にいた「内的起源」をもつ暴力/憎悪に遭遇する。》

●スピンクス=外傷

《これはスピンクスという女/敵/動物が、厳密に「外傷」であり、しかも史上類がないほど緻密に構成された「外傷」であることを示している。外傷は「自分」ではない者の恐怖であり、自分ではない者の恐怖に醸成され、その醸成は遡り、それは主体のない幾多の恐怖として連綿と遡行する。ラーイオスの同性愛の「結果」たるスピンクスの怨嗟と獰猛な女の相貌は、ラーイオスの少年愛の多分「原因」たる忌むべき女への嫌悪・恐れという、先行的というよりは同時的な心的因果性と交信する。意識(物理的認識)と歴史の外にある外傷の恐怖は、物理的/歴史的な積層に「鍛錬」される。ヌビアの襲撃は無数の肉が引き裂かれる戦慄と躍動であり、その苦痛/快楽には主体がなく、これは跳躍し捕食する獣の口の血と肉に主体がないのと同じである。》

●オイディープスとスピンクスの出会い(人類最後の贈与)

《おそらくオイディープスとスピンクスの邂逅は、出会いが生じる一瞬前と、出会いの一瞬後の、空白の「時空」なのかもしれない。しかしこの劇外/原光景から、オイディープスは「人間」として出来し、スピンクスは現れず、おそらく「後方」に「消滅」した。そして結局、オイディープスも同様に「消滅」する。この劇外に人は彼と彼女の「問-答」を想定するが、劇中のオイディープスその人は「問い」にも「解答」にも関心がなく、それは「すべてが明らか=変更不能」だからで、彼は「前方」と「見ること」を必要とせず、「それ故に」目を潰す。(…)私は「音で見る」者であり、「私の言葉は目が見える」のだと、彼自身が『コローノスのオイディープス』で断言する。スピンクスの側に「何なのでしょう」という、不可避の抑え難い、女/動物/自然の問いはあったかもしれないが、「前方」のないオイディープスは一瞥することなく身を躱し、それ故スピンクスは擦れ違い、後方に焼失する。そして自らの消失の瞬間にも、オイディープスは消え去りつつある「最も前の」言葉であり、つまり自らの前方を持たず、要するに時間を持たない。(…)死とは言葉/思考の純然たる消滅であり、「最も先にある」言葉は自らの消滅を「見る/知る」ことなく、消滅/転形は思考の一歩先に常にあるという回答を、父=過去=未来完了の言葉として贈与した。》

《(…)自然/動物/女の威嚇と欲望・渇望が、オイディープスの耳の中の喉の震えとなった時、彼に残っていたほんの僅かな無意識が、自らを「人間」として分節し、自らでない者に贈与する。しかしこれは人類最後の贈与であり、すべての話の始まりではなく、すべての話の終わりに生じて、消え去ったことなのである。》

《オイディープスの欲望のない怒り、あるいは欲望がない故の怒りともいうべき話の端緒に、その劇-時間の外側で、心的理由を持つ怒り/憎悪としてのスピンクスに彼が遭遇し、そこで何方が何方に与えたともなく一挙に「人間」という超-歴史的な概念が到来し、それによってスピンクス/動物/女は彼方へと跳躍・消滅し、踵にピンを刺された無力/男は原光景=「劇外」の外へと歩み出て、最後には消滅に向かうこと。》

●以下の描写の密度と強さが、このテキスト全体の説得力を支えているのだと思う。

《おそらくスピンクスが待ち構えるテーバイの丘に至る途上で、オイディープス、すなわち腫れた足の、その「歩行の困難」の一瞬ごとに、山の冷気が冷たい手となり彼に触れ、それは彼の肩に、背に、脚に意識を生むが、次の瞬間、それは周囲の草の中、白い岩の裂け目の中に消えて行く。空気の流れと、草木の匂いの、重さと軽さ、夕暮れの光が地面や苔や黴や虫の死体に作る陰影の明滅が、微かな揺れとなり音となり、「歩行の困難」の耳と舌先に乗り移り、「期待」と「無関心」を生成し並走させ、複数の「感情」を隆起させるが、やがて風も光も鉛のように重く暗くなると、すべての振動と変異は凝結し、時間は固い意識へと収縮する。何事も生じなくなり、すべてがここの意識にあり、その意識はもはや誰のものでもなく、疑念はなく懐疑もなく、意識/思考は別の思考に躊躇なく自らを明け渡す。そういった最後の局面、日は既に落ち何も見えず、何も動かない、その様な瞬間に、スピンクスは出現しオイディープスと邂逅したのだ。》