2023/03/20

●午後から、ChatGPTに翻訳してもらいながらハーマンの『Art and Objects』のつづきを読んでいたのだが、やけに重いなあと思っていて、五時くらいになったらとうとう、何を聞いてもまったく何も答えてくれなくなった(もうちょっとで第三章を読み終えるのだが…)。おそらく今、爆発的な勢いで使う人が増えているのだろうと思いながら、諦めて椅子から立ち上がり、本棚から紙の本(フリードの『没入と演劇性』)のを取り出して読むなど(紙の本は脱去しているのでネットワークの影響を受けない)。

七時過ぎに試してみたら復活していた。第三章「Theatrical, Not Literal 」を読み終える。一つの章をとにかく読み切ることができた。「ここは一体どういうことなのだろう?」と疑問が解消されない部分もなくはないが、話の流れというか、論の展開はだいたい追えたと思う。

翻訳されていない哲学の本を読めるとはなんということだろうかと希望が膨らむが、しかし一方で、調べてみると、読みたい本は原書も結局は入手困難だったり価格が高騰していたりすることが多いようだ。物理的障壁。電子書籍のありがたさをここ数日で初めて感じている。

●ハーマンの、「あらゆる芸術の根底に演劇性がある」という考えや、隠喩(比喩)にかんするまったく一般的ではない考え(隠喩=比喩はパフォーマティブオブジェクトを生み出す)は、一方でウォルトンのフィクション=ごっこ遊び説にも、他方でアラカワ・ギンズの切り-開き、切り-閉じる場にも、つながる可能性を持っているように、ぼくには思われる。

(芸術は、人間をその構成要素の一部として含むオブジェクトであり、芸術には鑑賞者が必須である。しかしそれでは「相関主義」ではないか。そうではない。相関主義とは「世界」と「思考(人間)」との分離を主張するものであり、その時「人間(精神)」には「世界」に対峙するものとして特別の地位が与えらていれる。リテラリズム=ミニマリズムの作品は「世界」に対峙する態度として相関主義であり、それゆえ批判されなければならない。そうではなく、「水」というオブジェクトにとって「水素」が必須の構成要素であることと同じ意味で、「芸術」というオブジェクトにとって「鑑賞者(人間)」が必須の構成要素である、となる。人は芸術に対峙するのではなく、その一部となる。同様に、「料理」というオブジェクト、「政治」というオブジェクトにもまた、その構成要素として「人間」が必須である。)

(ただ、「わたし」が芸術というオブジェクトの一部となるとき、「水素」が「水」の構成要素となるようにしてその一部となるだけでない。自ら「演じる」ことで新たなオブジェクトを生み出すホメロスの比喩「ワイン色の海」の鑑賞者としての「わたし」は、海のようなワイン色の質を演じることによって、「比喩の全体」という新たなオブジェクトを生み出す、その一つの構成要素となる。)

以下、ChatGPTが翻訳したそのままを引用する。

しかしここに問題があります。ホメロスの比喩的な海がすべての文字通りのアクセスから引き離されるにつれて、それについてのアクセスが不可能になりますが、そのワインダークの特性は引き続きアクセス可能です。これは問題です。なぜなら、物体と品質は常に対の形で存在するという有効な現象学の原則を公然と無視するからです。言い換えれば、私たちは単に隠された空虚なものを軌道に乗せてワインダークの特性を持つことはできません。 "ワインダークの海"の比喩に直接関わっているオブジェクトが必要です。私たちは、それが海であることはできないことを見てきました。それはアクセスから引き離されているからです。それがワインであることもできません。なぜなら、ワインは海の特性を提供するために比喩に入るだけであり、独自のオブジェクトとして入るわけではないからです。

メタファーは、場にもう一つの実在する対象があるという唯一の代替案があることがわかりました。その他の現実の対象は、メタファーの観賞者である私自身です。観賞者が暗いワインを演じる海を演じざるを得なくなります。メタファーはパフォーマンスアートの一種であることが判明します。他の種類の芸術も同様であり、芸術の場合は観賞者の関与がなければ、芸術としては成立しません。このようなパフォーマンスは、字義的な知識の場合には起こりません。ここでは、対象が場から消えることはないため、代替が必要ありません。

《私はオブジェクトであり、欠落している海もオブジェクトであり、比喩全体もオブジェクトです。》

●それにしても、「閉塞したモダニズム的な言説」と言われ、ぼく自身もそれを半ば認めざるを得ないとも思っていたようなものを、こんな風な形に読み替えて、再び命を吹き込む人が出てくるとは思いもよらないことだった。