2023/04/04

●グレアム・ハーマンのオブジェクト指向存在論は、ある意味でクリプキの固有名論に近い。固有名は確定記述の束に還元できない、というのを存在論的に読み替えて、オブジェクトは(下方解体であれ、上方解体であれ)確定記述の束に還元できないというのがオブジェクト指向存在論で、故に、オブジェクトは比喩的な「深さ」によってしか捉えられない(しかしもちろん、比喩はオブジェクトそのものではなく、その仄めかしにすぎない)。だから、ハーマンが批判する「リテラリズム(これは唯物論とも言い換えられるだろう)」は、オブジェクトを確定記述の束として捉えられるという立場のことだ。

芸術作品は鑑賞者がいないと成り立たないというときも、それは、鑑賞者に対して開かれているということではなく、鑑賞者が芸術作品の一部となることで初めて、芸術作品がオブジェクトとして閉じられる(成立する)、ということだ。水素がその一部となることで、「水」は初めてオブジェクトとして閉じられる。同様に、鑑賞者が、自らの身体を用いて「比喩を演じる」ことで芸術作品の一部となることで、芸術作品はオブジェクトとして閉じられる。水を構成する要素の一つである水素が、水というオブジェクトを汲み尽くせないのと同様に、芸術作品の一部である鑑賞者にも、芸術作品のすべてを汲み尽くすことはできない。故に、芸術作品は(鑑賞者に対しても、その他のすべて対しても)自律している、と。

(水は水素がなければ構成されないし、芸術作品は鑑賞者がなければ構成されない。しかし、水というオブジェクトは水素に対して自律的に存在しているし、芸術作品は鑑賞者に対して自律的に存在している。オブジェクトが下方解体によって還元されない、というのはそういうことだろう。)