2023/04/05

●『鉄オタ道子、2万キロ』、なんとなく好ましいな、というくらいの感じで観ていたのだが、最終話がすごい傑作で驚いた。シリーズで多用されていた(おそらく)ドローンによる空撮が、最終話で、(おそらく)ドローンによるみたこともないような長回しに発展していて、まず、そこに驚かされる。

栗原類の歩く後ろ姿から、駅に降り立つ玉城ティナへとつながる長回しのカット、そして、このカットだけでなく、その前の、神社の階段で写真を撮る栗原類から始まり、その後の、ホームを歩く地元の人を写真に撮る玉城ティナ、陸橋の上からその玉城ティナを撮る栗原類へと至る一連のモンタージュに驚かされた。ローバジェットの映画で、空間をこんな風に立ち上げることができるのか、と。

あらゆる映像がデジタルで撮られるようになって、実写映画が「実写」であることの意味が著しく低下していると言えるが、それでもなお実写であることの意味(価値)を追求しようとすると、こうなるのではないか(風景や肌あいまで含めた、この土地の「地形」が、このようなモンタージュを要請したのではないか、という意味で)。

勧めてくれた人が、90年代の黒沢清を連想させるといっていたが、確かに、90年代の黒沢清にあって、今では放棄してしまっているようにみえるものの可能性を、受け継いで、さらに発展させているような感じはあるかもと思った。あと、一番いい時のヴェンダース感も、ちょっとある。

(お話自体は「ほっこり系」なので、90年代黒沢清のあの荒んだ感じとは程遠いのだが、逆に言えば、荒んだ要素がなくても「あの感じ」でいけるんだ、という発見があった。)

●一方に、映画の演劇的側面の可能性(多重的・多元的な「見立て」の利用という意味で)を極限まで追求しているようにみえる、高橋洋映画美学校の学生たちと共同制作している一連の作品(『うそつきジャンヌ・ダルク』や『同志アナスタシア』)があり、他方に、デジタル的な環境下でなお、実写映画が「実写」であることの可能性を追求しているような作品(この作品以外だと『にわのすなば』など)があって、それらは「あり方(基本姿勢)」としては対極にあるが、どちらも、大きな予算を必要としない小さな映画の可能性を示していると思われる。