2023/04/09

●ほんとうにどうでもいい話だが、下のYouTube動画のコメント欄に、《この絵を描いた人は蛭子能収さんですかねえ》というコメントがあって、ああ、今の人は湯村輝彦を知らないのだなあ、と思った。知らなくて当然だが。

YMO 音版ビックリハウス - YouTube

考えてみれば、蛭子能収に限らず「ガロ文化」は今でも根強いが、「ビックリハウス文化」はほぼ消えてしまったのだなあ、と。蛭子能収の初期のマンガは今読んでも面白いと思うが、『情熱のペンギンごはん』(糸井重里湯村輝彦)や『ヘンタイよいこ新聞』を今読んで面白いとは、ちょっと思えない。「ビックリハウス」の熱心な読者だった者としては残念だが。

だがここでややこしいのは、『情熱のペンギンごはん』の掲載誌は「ガロ」であって「ビックリハウス」ではないことだ(蛭子能収も「ペンギンごはん」から受けた衝撃と影響を語っている)。「ビックリハウス」は「作品」というより基本的に読者からの投稿が載る雑誌だ。にもかかわらず、糸井重里湯村輝彦のタッグは「ガロ」的ではなく「ビックリハウス」的なものだと感じられる。両者は対立しているわけではなく、人材の行き来もある。しかしそれでも、基本的に違う。マイナーを指向することは同じでも、「ビックリハウス」には、「ガロ」的な、貧しさ、暗さ、文学性などを、古いものとしておちょくる感じがあった。そして、(「ガロ」の重視する作家性に対して)投稿雑誌としての「素人ノリ」があった。著名人であっても「素人ノリ」で参加する。それが80年代当初の「新しさ」だったのだと思う。「ペンギンごはん」はそのような意味で、脱ガロ的というか、ポスト・ガロ的な作品だと当時感じられた。

そして、「ガロ」がガチで貧しかったのに対して、「ビックリハウス」は、糸井重里にしろ、湯村輝彦にしろ、YMOにしろ、大きなお金の動くメジャーな仕事をする人たちが集う、マイナーな遊び場みたいな感じだったという点でも違っている。この点からも「ペンギンごはん」は(「ガロ」に掲載されても)「ビックリハウス」的なものだとして受容した。

しかしそれが、文脈を外して遠くから見ると、結果として似ている感じに見える(湯村輝彦蛭子能収が混同される)、というのがちょっと面白かったから、この文章を書いた。

湯村輝彦の仕事で今でも好きなのは、矢野顕子「ただいま。」のアルバムジャケット。ほんとうに酷い(すごい)絵だ。

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