2023/04/27

●問題が多々あることは承知の上で言うのだが、日本の地下アイドルのいいところは、本人がなりたいと思えば誰でも大抵ぬるっとなれてしまうというハードルの低さ故のゆるさ(激しい競争、厳しいレッスンが必須ではない)と、大きなヒットがなくても(大きくなることを目指さなくても)、一定数のファンが存在すれば存続可能だという経済規模の小ささ、そして、この二つによって可能になる多様性にあると思う。クオリティが高いことそれ自体はもちろん素晴らしいことだとしても、クオリティが高くなければ生き残れないという状態は望ましくない。

(普段は、多様性を称揚するようなことを言う傾向の人であっても、文化的、芸術的なものにかんしては、エリート主義的、権威主義的であり、そしてそれを自覚していない場合が多いという不信がぼくにはある。)

(オーディションやコンクール、あるいは売り上げランキングのようなものを「プロモーションの手段」として使うという傾向は、本当に良くないことだと思う。)

(そもそも文化的、芸術的なものは、それぞれ個別に、それ固有の良さ/悪さが検討されるべきもので、他のものとの比較や競争で優劣が決まるものではないはず。とはいえ勿論、一つの社会の生産量、一冊の雑誌の掲載量、一つの展示場のキャパ、一人の人間の受容能力などには限りがあるので、現実的に「競争」は避けられないのだが、競争はあくまで「避けられない」という限定条件としてあるもので、避けられないとしてもできる限り激しくないことが望ましいというものではないか。競争に勝つことが「目的」になってしまうような形は良くないし、激しい競争に勝ったから良いものであることが保証されるというのもおかしい。)

(クオリティの高いものが、そのクオリティを維持するために抑圧したり、捨ててしまったりしているもののなかにこそ重要なものがあるるという感覚は、必須のものだと思う。できないことや、負けること、飽きることの積極的な意味。)

(誰でも、何かを好きになったり熱中したりすると、思わず一生懸命になってやってしまうものだが、そのときに少し立ち止まって、ゆるさやぬるさの感覚を思い出すことは、とても重要なことだと思う。)

(温泉、マッサージ、散歩、昼寝、サポタージュ、倦怠、飲酒…、地下アイドル。)

(もちろんこれらのことは、真面目に努力を重ねることと排他的ではない。というか、イメージとしての真面目さではなく、本当に真面目に考えるなら、このことを気にしないではいられないはずだと思う。)