2024/06/01

⚫︎『白昼鬼語』(高橋洋、佐飛実弥、川合啓太、岡本光樹、丘澤絢音)。

短編映画『白昼鬼語』 原作:谷崎潤一郎 監督:高橋洋、佐飛実弥、川合啓太、岡本光樹、丘澤絢音 監修:高橋洋 - YouTube

虚構と現実の混淆、分身とデコイと役割交換、予言、そして「死」の直接的提示など、学生たちとの共同制作であるはずの作品だが、結果として、高橋洋的な要素が高度に濃縮されてたたみ込まれているように思う。映画美学校で制作される高橋洋が参加する共同制作の作品は(というか、そもそも高橋洋の作品全般がそうだと言えると思うが)、拡散に向かう傾向と凝縮に向かう傾向とが両極端のようにあって、この作品は凝縮に向う傾向のものと言えるだろう。

作品としては、劇団によって上演される物語と、劇団内のリアルな人間関係(あるいは、演劇に対する「映画」のレベル)がある。ここで、フィクション(演劇)と現実(映画)とをつなぐものとして、撮影された映像の同時投射(「同時」であるはずだが実際にはズレている)がある。対面するAとBがいて、Bがカメラを持ってAを撮影して、その撮影されたAの映像が、Aの背後にあるスクリーンに映し出される。つまり観客は(映画の観客も、映画内の演劇の観客も)、AとAの(リアルタイムではないリアルタイム ?)映像とが重なっている様を見る。これはつまり、A自身の像と、Bの視点によるAの像とが、同一フレーム内に収められているということだ。ここでは、相対する二つの視点が一つのフレーム内にあるのだが、このフレームが表現する「対面」の形とは、Bを見ているAの像と、Bによって見られているAの像ということになる。見ているAと見られているAという二つのAの像を、観客は見ている。このような視点(対面)のありようを他の映画で見たことがあるだろうかと考えるのだか、差し当たって思い出せない。

見ているAの像と見られているAの像の重ね合わせ、あるいは分裂。この視線のありようが、この作品の分身のあり方の特徴を表現している。

前述した「見ているAと見られているAという二つのAの像」は、映画内演劇のレベルで上演上の演出として示される。ついで、映画内演劇において、A(わたし・かな)が、C(そのうら・おおむた)と共に、B(女・あやこ)の殺人を一方的に除き見るという場面になる。その一方的な視線の中でD(男)がBに殺される。すると、現実(映画)のレベルでB(あやこ)の分身が現れて舞台を横切る(俳優も観客も驚く)。ここでは演劇→現実というレベルの混乱(横滑り)が起こっている。

次に現実(映画)レベルで、コックリさんによって「分身の正体はA(かな)である」という予言がなされる。この時点ではA(かな)には身に覚えがない。さらにここで「C(おおむた)の死」も予言される。このコックリさんの場面で(つまり現実のレベルで)「見ているAと見られているAという二つのAの像」が再び出現するのだが、この場面ではAを見ている(カメラを持っている)のは、現実レベルのB(あやこ)ではなく演劇レベルの虚構的B(女)である。ここでもまた、「現実→演劇」という、先程とは逆向きのレベルの横滑りが起こる。

公演の楽日にB(あやこ)がなぜか現れない。そこで代役E(女・代役)が立てられる。つまり、演劇のレベルではBの分身はEである。演劇の終盤で、B=E(女)は、Dに続いてC(そのうら)も殺そうとする。前半で示された演劇(物語)内で、Dが、AとCの視線の中でBに殺されたように、Cは、Aの視線の中でB=Eに殺されようとしている。つまりここで、CはDと(演劇内で)役割=死を交換している。すると、B=Eによって殺されようとしているCを覗き見しているAの前に、B(女?・あやこ?)が現れる。このBは、演劇レベルにあるのか現実(映画)レベルにあるのか決定できない。Bは、Cが殺されそうになっている場面を示し、Aに「あなたが一番怖がっていたこと、ほら」と示唆する。

示唆に導かれるようにAは舞台に上がり、B=Eに変わってCの首を絞める。しかしこれは演劇レベルの出来事ではなく、現実(映画)レベルで、A(かな)がC(おおむた)を殺そうとしている(演劇→現実の横滑り)。そして、C(おおむた)がリアルに死んでいくその場面を、演劇レベルで前半に殺される役を演じた(現実レベルの)Dが、ビデオカメラで撮影する。

映画は、リアル殺人場面を、演劇レベルでA(わたし・かな)が覗き見していた場所から見ているB(女?・あやこ?)のクローズアップで終わる。

⚫︎この作品のミソはまず、演劇レベルの視線の一方向性に対して、映画レベルの「切り返し」を対置するのではなく、「見ているAと見られているA」の重ね合わせを対置し、そこから分身を引き出しているところにあると言える。さらに言えば、この映画で重要なのは分身ではなくて「役割の交換」であり、この「役割の交換」こそが「切り返し」によって示される。分身はあくまで、役割の交換を引き出すための撒き餌のようなものだ。

役割の交換はまず、虚構=演劇のレベルで、B(女)に殺されるDと、同じくBに殺されるC(そのうら)との間で行われる。Dがそうであったように、自分もまたBに殺されたいと、虚構の物語の中でCが願い、それが実行される。また、演劇レベルでは、楽日にやってこないBの代役をEが行うという形でも役割が交換される(Bが劇場に来ないのは現実レベルの出来事なので、半分は現実レベルだが)。

現実レベルでは、まず、A(かな)のB(あやこ)に対する嫉妬(あやこは俳優として輝いている)がある。そして、「あやこを見ているかな」と「あやこに見られているかな」という、「かな」と「あやこ」の二つの視点が、二つの「かな」の像の分裂と重ね合わせによって表現される。この、像の分裂と重ね合わせは、演劇のレベルと現実のレベルを貫いて出現しており、二つのレベルの一方から他方への横滑りを促す。

現実レベルで、あやこの分身が現れるという事実がある。そして、コックリさんによって「あやこの分身はかなである」と予言される。分身を、自分から分裂していく自分だと考えると、これはまさに「あやこを見ているかな」と「あやこに見られているかな」との分裂を表現していると言える。つまりここで「分身」とは「あやこ」の似姿であるよりも、「かな」と「あやこ」による二つの視点を表しており、さらには、この二つの視点の交換可能性を表している。「あやこ」に嫉妬する「かな」は自らを「あやこ」の位置につけたいと願うだろう。

さらにもう一つの位置交換がこの作品にはある。虚構と現実との交換だ。虚構の死を現実の死と交換する。あるいは、両者がいつの間にか置き換わってしまう。「あやこ」と「かな」の位置の交換は、虚構の死と現実の死との位置の交換を導いてしまうのだ。この交換を媒介するのは、実は「かな」の嫉妬であるよりは、B(女・あやこ)という存在だろう。B(女・あやこ)は、虚構のレベルと現実のレベルとの両方において「人を死に導く」悪魔的な存在であり、B(女・あやこ)は「かな」の嫉妬を利用して、虚構の死と現実の死とを媒介して、虚構の死(殺人)を現実化させてしまう(虚構から「死そのもの」を現実へと露呈させる)。自分(B)が虚構的に殺人を演じることで、虚構的なA(わたし)を介して現実的なA(かな)を現実的な殺人の実行に導く。

「あやこを見ているかな」と「あやこに見られているかな」という顕在的な二つの像の裏には、「かなに見られているあやこ」と「かなを見ているあやこ」という潜在的な、不在の像があるはずだ。B(女・あやこ)はこの不在(潜在性)のなかで虚構のA(わたし)を介して現実のA(かな)を操作する。そして、「あやこを見ているかな」「あやこに見られているかな」、と、「かなに見られているあやこ」「かなを見ているあやこ」の位置を反転(切り返し)させる。ラストカットの、右目にだけライトの当ったB(女・あやこ)のクローズアップこそが、その反転(切り返し)を表現する映像であろう(それは、Bが覗いているであろう覗き穴を見上げるA(わたし・かな)のカットの切り返しとして示される)。

⚫︎この作品でもう一つ興味深かったのは、「現実の死」の提示の仕方だ。死の現実性は、観客の前で実際に殺人を実行すること(そのような場面を映画として示すこと)によってではなく、死の場面をビデオカメラによって撮影した、その「ビデオ映像」によって示される。つまり、虚構内虚構として演劇があり、虚構内現実として映画的な場面があるとすると、そこからもう一回、ビデオカメラで撮影すること介して「死の直接性」を表現しようと(露呈させようと)としている。死の場面に立ち会うよりも、スナッフビデオの方がよりリアルに死が露呈される、という感じ。