⚫︎無能な人というのは普通に存在する。学校のクラスで空気のように埋もれ、バイトの現場で頼れる先輩やかわいい後輩にもなれない。人から称賛される立派な仕事や行いもできず、かといって大きな悪を成す度量もない。彼らは確実に存在するが、多くの場合軽く扱われ、その存在を顧みられることは少ない。
そういう人が、自分の存在を強く示したいと思う時、その手段は限られている。社会に対するちょっとした嫌がらせのような行為は、その数少ない選択肢の一つだろう。バイトテロとか、醤油ペロペロみたいなことだ。
他人を気持ち良くさせたり、困っている人を救ったり、あるいは他人を打ち負かしたりする(他人に勝つ)ことで自分の存在を主張するだけの能力がないとしても、他人に不快な思いをさせることで自分の存在を主張することはできる。人に不快感を与えることができる、故に我あり。わたしはここに存在しているのだ、と。バイトテロのような行為は、持たざるプロレタリアートによる自分の存在の提示としてのテロリズム(政治的主張)だと言える。
N国党のような組織は、まさにそのような「持たざるプロレタリアートによる自己存在提示=社会的嫌がらせ」を組織化したような集団だろう。N国党のようなやり方は、本当に本当に本当に大嫌いだが(大嫌いだと思えば思うほど彼らの思う壺だが)、しかし「大嫌い」だという理由でその存在を排斥することもできない。無能な人、ダメな人が、無能であるまま、ダメであるままで、その存在が十分に尊重される回路がない限り、一定の支持を集め続けるだろうし、決して滅びることはないだろうと思う。
(行為としての社会的嫌がらせを肯定しているのではない。それは単なる「嫌がらせ」であり非倫理的で反社会的行為であって、別に反権力・反権威主義的な行為というわけでもない。実際、そのような行為ではしばしば弱者が被害者とされてしまう。だからそれは肯定できない。そうではなく、社会的嫌がらせによってしか自己を提示できない存在があるということを認識しなければならないという話だ。)