2024/07/01

⚫︎Netflixで『地球外少年少女』をあらためて観直していた。前に観た時にはなぜ気づかなかったのだろうかと思ったのだが、これはあからさまに「シンギュラリティ時代の逆襲のシャア」ではないか(コロニー落とし・地球という「ゆりかご」から離脱せよというメッセージ)。ただ、人々の総意(サイコフレームの光)の代わりに、高度な計算(AI・セブン、セカンドセブン)があり、AIによって助けられた(AIによって選ばれた、とも言える)若い世代の意志と行動がある。

その意味では、「ガンダムUC」にも似た構図だと言える。遥か先の未来の果てまでを見通しているフル・フロンタル(≒シンギュラリティ時代のAI)に対して、未知の何かを手探りすることに賭けようとする若者たちがいる。そして、「ガンダム」のシャア、あるいはフル・フロンタルの位置に、「地球外…」ではナサがいる。

既知としての「計算された未来」があり、そこから遡行される(既に答えの出ている)「現在の行動」がある。このようなフル・フロンタルやナサの思想は、物語上では当然のことであるかのように排斥される。しかし、現実においてこのような思想と戦うことは簡単なことではない。何より、フル・フロンタルやナサが「間違っている」ことは決して自明ではない。

(この作品では、計算された既知の未来からの逆算が「人類全体の存続を優先する全体主義」に対応し、未知の可能性への探究が「個としての存在を尊重すること」にそれぞれ対応しているとみなされているが、この組み合わせは自明ではない。)

「地球外…」においてナサは、「子供(≒未知の可能性)が嫌い」なのにもかかわらず「子供に好かれる」存在であり、また、誰よりも「子供を守る(医療=インプラントのケアにおいても、自己犠牲=エレベーターの落下事故においても)」存在である。彼女は、後に、結果的に、彼女の目的遂行を阻害する「若い世代」を見守り、保護し、育ててしまっているとさえ言える。「既知の未来(セブンポエム)」の信奉者である彼女は、同時に、嫌いなはずの「子供たち(未知の未来)」を庇護者でもある。その意味でナサはたんなるテロリスト(自明な悪)ではない。彼女は誰よりも善人だとさえ言える(自分よりも他人を優先するからこそ、自ら進んで人類存続のためのコマになる)。彼女の存在の両儀性が、彼女の「思想」を批判することの困難さを表現してもいる。

(繰り返すが、「既知の未来」と「未知の未来」との対立は、「全体主義」と「個の尊重」の対立と重なるわけではない。この二つはまったく別の問題だろう。)

また、この作品は必ずしも、AIの計算がもたらす「既知の未来」に対して、子供たちが示す「未知の可能性(別の未来)」の優位を示しているわけではない。確かに、AI(セカンドセブン)は子供たちの説得により考えを変えたようにも見えるが、それは、「子供たちによるセカンドセブンの説得」という過程そのものが、既にそれ以前のAI(セブン)によって計算されていた危機回避(人類存続)のプロセスの一部であったことを否定はしない。この点についてもこの作品は両儀的だ。