⚫︎東京都現代美術館の津田道子の展示が素晴らしかった。
⚫︎「生活の条件」。津田道子の作品では、いつもフレームが大きな役割を果たすように思う。会場内には、中身のないただのフレーム、両面に映像を投射できるリバーシブルスクリーン、フレームに囲われた鏡、という三種類のフレームがある。
フレームは、異なる時空(既に撮影された映像・現実を反転させる鏡像・いま、ここの現実の時空)を、切り分けると同時に、並立させ、同居させる。投影された映像を裏表同時に映し出すリバーシブルなスクリーンは、ほぼ等身大の(既に撮影された)人物の像を、そして仕草を、「いま・ここ」に出現(再現)させる。撮影された人物がフレームを通り過ぎ(横切り)、同様に、プロジェクターとスクリーンの間を「いま・ここ」にいる観客が通り過ぎる。すると、そのスクリーンの裏側では、いま、その裏を通り過ぎた観客のシルエットが通り過る。そしてそれを見ている「わたし」も、フレームの前を通り過ぎ、プロジェクターの前を通り過ぎる。その「わたし」の影も、反対側のスクリーンの上を、いま、通り過ぎているだろう。
映像(過去)の身体、他者の影、他者の身体(実態)、わたしの身体(実態)、わたしの影、が、次々にフレームの前を通り過ぎ、「この時空」のなかで、フレームを通じて混じり合う(切り開き、切り閉じる)。展示空間内には鏡もあって、鏡はさらに、フレームたちが切り開き切りとじる「この時空」の反転像を出現させている。
全体を一望できる迷路とでもいうべき矛盾した時空のなかで、空間や時間の切片が連続性のある全体像から常にこぼれ落ちるように分離していき、それらが予想外の形で再-接続される。切り離されては、繋ぎ直されることで刻々と生成し続ける時空のなかで、映像(過去の再出現)と影と鏡像と実体との関係が、他者の身体とわたしの身体との関係が、他者の主観とわたしの主観との関係が、切り離されては、繋ぎ直される。
映像のなかの身体が、両方の手のひらを強く打ち合わせ、パンッという乾いた大きな音が響く。映像は幻だとしても、音は、実際にそこに実在する空気を振るわせている。
映像のなかの身体が寝そべっているように、いま、ここにある観客の身体が寝そべっている。そのようにして、いま、ここにいる「わたし」の身体も寝そべってみる。
そのように時空が錯綜し、自他が錯綜するなかでなお、「わたし」は、そこに「わたしの匂い」のような感触が立ち上がるのを感じる。薄暗い空間で、「わたし」は「わたしの実体」を見失うような体験のなかで、微かな「わたしの匂い」が、それでもそこに強靭に残っているという事実に、出会う。
⚫︎「カメラさん、こんにちは」。キッチンのような場所で、父、母、幼い娘の三人によって演じられる、「買ったばかりのビデオカメラを使って自分たちを撮影すること」を巡る寸劇。この寸劇は、三脚に固定されているが、パンニングやズーミングによってある程度はフレームが動くビデオカメラによって撮影されている。この寸劇=映像は、年齢も性別も、おそらく国籍も異なる12人の俳優によって、三つの「役」をそれぞれ取り替えながら演じられる11のバリエーション(壁に一列に並べられたモニターによって、微妙な時間差を持って提示されている)がある。加えて、一つのフレーム(一つながりの時間)のなかで次々と12人の役が入れ替わるバージョン(これは壁に大きく投射されている)があり、合計で12の映像のバリエーションとして展開されている。
(「役」だけでなく「言語」も入れ替えられる。日本語で演じる俳優と、韓国語で演じる俳優がいる。)
(モニターの反対側の壁には、役割を入れ替えた12のバリエーションの「家族写真(静止画)」も展示されている。)
(この寸劇=映像は、作者が幼い頃に家族で撮ったオリジナル映像をもとに制作されているそうだが、そのオリジナルは展示されない。)
会場には、実際に撮影で使われたものだと思われるキッチンのセットがあり、ビデオカメラが備え付けてある。セットでは、あたかも、いま、ここで寸劇が演じられているかのような音声が流れている。観客はセットの中に入ることが出来るし、テーブルの前にある椅子に座ることもできる。ビデオカメラはセット内を撮影しており、そのリアルタイムの映像と、既に俳優によって演じられ撮影された寸劇の映像とが、二畳写しになって壁面に投影される(リアルタイムの観客と、既に演じた俳優が重ね合わせられる)。映像が投射されているのと対面の壁には、セット内のカメラ位置と俳優たちの動線を示したドローイングが描かれている。
⚫︎ここで行われているのは、さまざまなレベルで「位置を交換する」ことだと考えられる。そもそも、オリジナルの「家族ムービー」が、買ったばかりのビデオカメラによって撮影される家族映像の「フレームの中心」を奪い合うようなものだった(と、推測できる)。まずは父がフレームの中心に居座り、ついで、遅れてやってきた娘(おそらく作者)が、会話においても撮影される対象としても画面の中心の位置を占有するようになり、最後に母が、自分こそが中心であることを自分自身で改めて強く宣言する。ここでは、「フレームの中心」という位置は移動するが、父、母、娘という役割は固定されたままだ。
再現映像では、オリジナルの父、母、娘に代わって、別人である俳優たちがそれぞれの役=位置を占めることになる。それはまずは、オリジナルの父、母、娘の表象として適当であるような、年齢、性別の俳優によって演じられるが、次第に入り乱れてくる。男性が母や娘の役=位置についたり、女性が父の役=位置についたり、年配の俳優が幼い娘の役=位置についたりする。衣装も交換され、カツラなどにより髪型も交換される。また、日本語で演じる俳優と韓国語で演じる俳優がおり、日本語だけで演じられるバージョンも、韓国語だけで演じられるバージョンもあり、両者が入り乱れているバージョンもある。そして、これら11のバリエーションは同型のモニターによって表示され、並列的に配置される。12人3役による11のパラレルワールドで共通しているのは、背景(空間とそれを切り取るフレーミング)、セリフと身振り、そして「役割(位置付け)」である。座標(背景)のなかで、セリフと身振りによってそれぞれの役の「位置」が確定される。その位置さえ確定されていれば、そこに何を代入しても「構造的に同じ寸劇」が成り立つ。位置に着くのは、12人の俳優の誰でもいいし、他の俳優でもいい。そして、あなたでもいいし、わたしでもいい。
(「シングル・チャンネル・バージョン」と呼ばれるもう一つのバリエーションは、一つの寸劇のなかで目まぐるしく次々と役が交代されていて、横並びの11のパラレルワールドに対して、時間軸方向で、次々と異なる時空に接続されるという時空のありようを示している。)
⚫︎(外側から見られた)「誰でもいい」ではなくて、(内側から見られた)「あなたでもいいし、わたしでもいい」というレベルの交換可能性が、キッチンのセットとその周りの空間によって示されている。実際に撮影が行われたであろうセットの中に入り込む観客(わたし)は、そこに発生している音声と、二重写しに投射される映像のなかにも入り込ん(映り込んで)でおり、半ば強制的に半虚構的な場に置かれ、半分くらいは「役」の位置につかされることになる。「かつて、ここ」で俳優に演じられた役の位置を、「いま、ここ」で「わたし」が反復させられる。
それが「寸劇」である以上、上演されさえすれば「いつ、どこ」でも成り立つ。寸劇内にある「役(位置)」も同様に「いつ、どこ」においても発生し得る。しかし同時に、この寸劇、そして寸劇内の「娘」の位置は、この作品を形作る俳優によってだけでなく、さらに遡行すれば、かつて作者自身において「内側から経験された出来事」でもあった。それはつまり、この役=位置=経験のオリジナルは作者自身のものであるということだ。幼い作者において、しかも家族という自身のうちに深く刻まれる場において起こった出来事。
しかし作者はここで、過去の自分のかけがえのない経験を再現し、表現しようとしているのではないと思われる。
この寸劇、あるいはこの作品装置全体を通じて、作者は、自分が「この経験のオリジナルの位置」を占有することを放棄しようとしているのではないか。「位置=経験」を交換可能なものにし、そこに何を代入しても成り立つものとして構築し直そうとする。わたしの経験は、かけがえのないオリジナルなものではなくパラレルワールド上の一つにおける経験であり位置である。そう考えるならば、「あなた」も「この位置」につくことができる。「あなたがわたしである」こともできる。
⚫︎ここで重要なのは、「わたし(作者)の経験の質」(わたしの経験をあなたに押し付ける)ではなく、「《あなたがわたしである》こともできる」という時空の構造を出現させることの方だろうと思う。それは、「《(かつての)わたしが(いまの)誰かである》こともできる」という寸劇上演の構造を通じてなされるだろう。