2024/07/12

⚫︎『小市民シリーズ』第一話をNetflixで。なぜかシネスコ的なすごい横長フレーム。

うーん、何か今ひとつ冴えない感じ。もっと淡々としていていいと思うのだが、演技にしても、演出にしても、不必要な「溜め」を作ったりしていて、それと、主役の二人があまりに穏やかなせいか(もちろんこの二人こそが獰猛であり穏やかさは「装われた」ものなのだが)、それ以外の人物(特に男子)が、すぐに声を荒げたり大声を出したりで、粗暴すぎるように感じられた。ポシェットを探している男子三人が、こんなに粗暴である必要あるのか、と思ってしまった。健吾も人に圧をかけすぎているように見える。こんな高圧的なキャラじゃなかったと思うけど。

あと、推理をしている時に「別の場所」に移動する演出も、あまりいいとは思えなかった。23分がけっこう長く感じられた。

⚫︎人の死なない、いわゆる「日常の謎」系ミステリの批評的な意味も、『春季限定いちごタルト事件』が出版された20年前とは随分と違ってきていると思うのだが、アニメシリーズが、その点についてもどんなアプローチをするのかもう少し見ていきたい。

(この日記を検索してみると、初めて米澤穂信を読んだのは2006年で、ほぼ一気に「古典部シリーズ」三作と「小市民シリーズ」の一作目を読んで、すぐに次いで『さよなら妖精』も読んでいる。あれからもう18年過ぎて、18歳も歳をとったのかとしみじみする。)

(追記)Wikipediaにも書いてあるが、小鳩くんが安楽椅子型探偵で、小佐内さんがハードボイルド型探偵。小鳩くんは超頭が良くて、謎や問題が提示されると首を突っ込まずにはいられない(そして見事に真実に到達する)。小佐内さんは超行動力があって、自分が何かしらの形で攻撃されるとそれに対して復讐することを抑制できない(執念深くもある)。この二人が自分の能力を使わないで済ますために(つまり、厄介な事件に巻き込まれない、あるいは首を突っ込まないように)、相互に防波堤となり合い、相互に抑制し合う「互恵関係」として、二人はカップルである。二人はとても高いスペックを持つが、自分の持つスペックを「使わないで済ます」ために、できるだけ波風を立てず、摩擦を起こさず、できるだけ目立たない「小市民」であることを目指す。つまり二人はどちらも、自分の持つ高い能力を発揮しても、(同調圧力と平準化圧力が強く作用する世界では)ただ周囲との摩擦が起きるばかりでいいことはなにもないと感じている(誰もが「真実」の開示を望んでいるわけではない、むしろ誤魔化しようのない「真実」は嫌われる)。このような捻くれた設定そのものが、20年前には高い批評性を持っていた(そもそも20年前には「同調圧力」などという便利な言葉すらなかった)。

とはいえ、二人は決して「小市民」であることを維持できず、自らの能力をついつい発揮してしまい、そして結果として周囲から疎まれる。二人の、「小市民」であろうとすることの破綻と、「小市民」であることはできないという自覚が、このシリーズの展開だと言える。ただし完結編(『冬季限定ボンボンショコラ事件』)では再び、高い能力の行使が必ずしも良いことではない(奢ってはいけない)という原点に返ってくる。