⚫︎宣伝のようになってしまうかもしれないが。
小説集『セザンヌの犬』では、難しい言葉は使われていないし、難解なことが書かれているわけでもない。読みさえすれば、誰にでもわかることしか書いていないと思う。ただし、多くの人が無意識のうちに、あるいは無自覚なままで「前提としているもの」が、何の断りもなく当然であるかのように前提から外されれてしまっている。だから、わけがわからない、とりつく島がない、どうやって触れたらいいのかわからない、となるのかもしれない。
一方、『虚構世界はなぜ必要か ? 』というアニメについての本も書いている。こちらは、けっこう難しめの言葉使いや、複雑なロジックなどを用いて書かれている。ただしこちらは、多くの人が無意識、無自覚に「前提としているもの」は尊重されている。その意味では、めんどくさいなあと思うかもしれないが、論旨を追っていきさえすれば(それに同意・納得するかどうかはともかく)、何をやろうとしているのかはわかるようになっていると思う。
前者が小説の「実作」であり、後者がアニメの「批評」であるという「ジャンル」の違い以上に、作られ方というか、構築の原理が根本から異なっている。とはいえ、同じ人物によって書かれているので、「ほぼ同じようなこと」が書かれている(同じような関心に基づいて書かれている)と、言えなくもないかもしれない。
それは、『虚構世界はなぜ必要か ? 』が『セザンヌの犬』の説明や解説になっているということではない。「エネルギーと質量とが等号で結べる(E=mc2)」というような意味で「同じようなことが書かれている」ということだ。
上の文を、《コーヒーカップとドーナツがトポロジー的には同型であるように》と書こうとしたが、いや、それは違うだろうと考え直した。異なる存在の様式、異なる構築の原理を持ったもの同士が、実は同値であるとして、二つをイコールで結ぶ、「そのこと(結ぶという行為)」によって初めて見えてくるようなことがあるのではないかと思う。
(実作と批評とは、ジャンルとしての違い、オブジェクトレベルとメタレベルの違い、一次創作と二次創作の違い、というのではなく、エネルギーと質量とが違うように違う、のだと思う。)
(追記。つまり、実作と批評はイコールで結べる。)