⚫︎地元の駅は、バスの降車場から駅までちょっと距離がある。大きく広くとられたバスターミナルを迂回していかなくてはならないから。だが、バスターミナルの真下を、駅まで続く地下道があって、ショートカットすることもできる。
だがこの地下道は、駅までのショートカットのために作られたのではない。以前は、バスターミナルの広さも、配置も、構造も、今とはかなり違っていた。ぼくが八王子に住んでいた25年くらいの間のいつか(時期は覚えていないが)、駅の北口側が再開発されて大きく様変わりした。しかし地下道は、再開発前からあった、以前のバスターミナルのために作られた古くからのものだ。以前は、行き先ごとのバス発着所が広いターミナルに島のように点在していて、発着所には地下道を通ってしか行くことができなかった(地上の道路を横断できなかった)。
今ではバスの発車場は歩道に沿ってあるので、地下を通る必要はない。だが、本来の用途を失った地下道が、結果として、ターミナルを迂回しないで済むショートカットに使えることから、そのまま残されたのではないかと思う。駅前の光景はまったく様変わりしたが、地下道だけはほぼ昔のまま(記憶のまま)で残っている。バスから降りて地下に下る、また、駅の階段を地上まで降りて、さらに地下に下る、その際、その都度、軽い時間の感覚のズレのようなものが生じる。
(ただし、古い、暗い感じの地下道なので、少しでも明るくするためなのか、おそらく地元の学生が作ったと思われる壁画がたくさん並んでいるのだが、そのクオリティの低さと、たくさんあるのに統一感が全然ないこととで、外観的にはかなり残念な感じになっている。壁画は、まったくの素人仕事ではないとわかるだけに、その中途半端さでいっそう残念感が増す感じ。)
地下道は、バス降車場から駅までの、南北のショートカット道が一本と、ターミナルの東端から西端への、東西のショートカット道二本とが、交差している。
普段ほとんど使うことのない、東西ショートカットの地下道の、西側から入って東側の階段を登る。その出口のすぐそばに、敷地面積の狭い、細長いビルが建っている。それを認識した瞬間、そういえば、このビルがモデルとなっていると思われる夢を見たことがある、と不意に思い出す。しかしそれは、最近見た夢ではない。5年とか、下手をすると10年以上前に見た夢ではないか。
いや、そんなことがあるのか。夢など、目覚めてしまえばすぐに溶けて消えてしまうものだ。まれに、強く印象に残る夢があっても、時間の経過とともにその生々しさは失われてしまう。なのに、10年も前の夢を、細部まで明確にというわけではないが、しかしその雰囲気や感覚を強い生々しさを伴って思い出すことなどあるのだろうか。と、大袈裟な書き方をしてしまったが、ぼくにはそれがしばしばある。特に驚くことでもない。
(トラウマ的な反復強迫ということではない。細いビルの細い階段には、店舗に入りきれない商品が雑多に置かれていて、それらを階段から下に落とさないように、そしてさらに、自分自身が階段から落下してしまわないようにと、ヒヤヒヤと気を遣いながら階段を昇っていく、というような他愛無い夢だ。)
しかし、それは「本当に10年前に見た夢」を思い出しているのか、そうではなく、今、ここで、「10年前に見た夢の記憶」が作り出されている、ということなのではないのか。この、つかみどころのない記憶=感覚の出自への不安定な「距離感」のあり方が、ぼくにとってはとても強いリアリティを持つ。生々しく生起するある感覚=記憶があるが、その、今ここにある感覚=記憶の起源(由来)と、今ここでその感覚を感じている(感覚が出来している原因である)「わたし」の存在する位置との、関係(距離感)が失調している。ここでは、その感覚=記憶の「内容」よりも、それと「わたし」との、関係(距離感)の掴み難さの方にリアリティの重心がある。
そもそも「夢」は本当ではない。この感覚の由来が「夢」であるのだから、その真偽を確かめようがない。「本当にその夢を見たのか?」という問いの「本当」という語が、一体何を指し示しているのかよくわからない。「昨日、わたしが見た夢」がこの世界に出現した現実的な時刻を「昨日の晩」へと紐づけることは適当なことなのだろうか。「昨日、わたしが見た夢」を、わたしが見たのは本当に「昨日」なのか。