2024-10-31

⚫︎吉田豪の配信番組に出ていた茂木健一郎が、「明石家さんまには他者性がない(からダメ)」というようなことを言っていて、さんまへのこのような批判はあまり聞いたことがなかったが、この批評はとても鋭く的確だと思った。

https://www.youtube.com/watch?v=gJ_sFuoNgkg

明石家さんまは、きっと人柄としてはとてもいい人、というか、人格としては立派な人であるように見えるし、その点ではぼくも尊敬するが、話芸には昔から違和感があった。芸人同士の場でチームプレーを重視するのはわかるとしても、「さんまのまんま」などのトーク番組でも、相手(ゲスト)を持ち上げるフリをして「さんまフィールド」で包み込んで、その外には決して出させない感じがきつい。そもそも人の話を聞く気がない、というか。

「さんまフィールド」の中ではさんまは無敵だが、それはゲストの固有性を殺すことで成り立っているように見える。さんまにとって利用可能な固有性だけを活かす、というべきか。明石家さんまにとって、テレビという場では何よりも「笑い」が優先され、「笑い」の方へと転がらない要素はすべて無駄なもので、無駄なものはいらないということなのだろう。あくまで「笑い」の人に徹していて潔いといえば潔いのかもしれないが(中途半端に「人情」的なもの、あるいは小賢しい「批評」的なものを一切絡めない抑制されて乾いたスタイルは好きだが)、「笑い」だけが面白いものであるわけではないし、明石家さんまが考える「笑い」だけが「笑い」だというわけでもない。その「レンジの狭さ」をきついなあと感じることが、確かにある。

(ぼくがテレビを観ていたのは10年以上前のことで、明石家さんまについてもここ10年くらいの情報は何もないが。)

⚫︎ただし、笑いに「人情」や「批評」を絡めない抑制的な態度は尊敬している。ぼく自身の思想としてはおそらく左寄りなのだと思うが、昔からどうしても、笑いに人情を絡める右派芸人と、笑いに批評を絡める左派芸人が好きになれない。人情も批評も重要だし必要だが、それを「笑い」に混ぜると不純になる(権力化する)という感覚がどうしてもある。この点では、笑いの批評性を重視する茂木健一郎とは相容れない。

(「笑い」はちょっと気を抜くと簡単に権力化する。嘲笑。愛想笑い。同調笑い。権力化していない「笑い」を探す方が難しい。「笑い」を反権力と考えるのには無理があると思う。)

(反権力的な、批評的アイロニーという態度はあるし、重要だが、それは「笑い」とはちょっと違うように思う。あるいはフロイト的な意味でのユーモアも反権力的だが、それも「笑い」とは違う感じ。アイロニーやユーモアは「知」だが、笑いは「非知」だという感じがぼくにはどうしてもある。人間が非-人間に触れる時に笑いが起こる、みたいな感覚。バスター・キートンジャック・タチ、そしてスクリューボール・コメディ。ただ、このような感覚はモダニズム的で、もはや古いのかもしれないとも思う。)

(最近の「お笑い」にはまったく触れていないし何も知らない。)

(なんというのか、「モンティ・パイソン」的アイロニーは知的ではあるが「笑い」だと思えないが、『銀河ヒッチハイク・ガイド』まで行くと人間を超えているから「笑い」だと感じる。宇宙の存在する意味が「42」だというのはアイロニーではあるが、それをぶっちぎってもいる。)

(とはいえ、アイロニーやユーモアを「笑い」から除外しなければならないという決まりがあるわけでもないか。ただ、ぼくが、そうではない、人間と非-人間の接点としての「笑い」に強く惹かれているという話でしかないかも。)

⚫︎ただにこにこ笑うような、笑顔的、微笑み的、オキシトシン的な「笑い」は、それらとはまたまったく別の事柄だろう。こちらはただただ幸福であり、ただただ素晴らしい。ずっと笑っていさえすればよい。

⚫︎あと、小島よしお的な笑いもあるか。あれもまた、ただ大笑いすれば良い。ただただ肯定的な何かだ。