⚫︎定期的に、繰り返し、怒りと共に思うことだが、倫理的な批判の根拠は倫理的に示されないといけない。倫理的な批判を美的な根拠において表現してはいけない。これは当然のことだと思うのだが。
具体的には、「キモい」とか「ダサい」という言葉を、倫理的に問題があると批判する対象に対して使うな、ということ。それはまさに差別と同じことをやっていることになる。異邦人が、時にエキゾチックで魅力的に見え、時に不気味で気持ち悪く見えるのは、美的なコードの違いによるものだ。それを根拠に、エキゾチックに見えるから善で、気持ち悪く見えるから悪と判断することような倫理的判断は倫理的に許されないはずだ。
(「カッコイイ / ダサい」というのは「快 / 不快」という次元の判断であり、それは倫理的な「善 / 悪」という次元の判断とは別の位相にある。感覚的な「善 / 悪」ではあるかもしれないが。ただ、これを混同してみせると一見カッコよく見えるので、カッコつけたい人が混同することが多くて、うんざりする。)
(キモいことは、単にキモいというだけのことで、それ自体として善でも悪でもない。キモくて善であることもあるし、キモくて悪であることもある。善でも悪でもなく、ただキモいこともある。キモいから嫌だ、というのはアリだが、キモいものは悪、というのはナシだ。)
(追記。ピーマンが嫌いだったり、ニンジンが嫌いだったりするのは、それぞれの自由で、嫌いなら食べなければいい。しかしだからといって、ピーマンは悪、にんじんは悪、とは言えない。ここを混同してはいけない。美的判断とはそのようなものだ。ただし、にがかったり、臭かったりするものは「毒」である可能性がある、ということは言える。だから毒(悪)を見つけるセンサーとしての意味がある。それでも「臭いから毒(悪)」とは言えないし、「臭い」を「毒(悪)」という意味で用いてはいけない。それは差別だ。)
倫理的に問題のある対象に対して「キモい」と表現することは、それ(差別)と同様の、美的判断と倫理的判断の混同を行なってしまっている。それをすることで美的判断と倫理的判断の混同を肯定し、それ(差別)に加担してしまっていることになる。
(美的判断が倫理的判断の繊細なセンサー(徴)になることはあり得る。なんか気持ち悪いと感じてよく調べてみたら問題があった、ということはよくある。しかし、なんか気持ち悪いと思ったが、調べてみたら誤解だった、なぜ誤解したかも理解できた、ということも同じくらいある。センサー、あるいは直感には、実践的な意味はあるが根拠にはならない。批判するならきちんとウラを取って根拠を(「徴(美)」ではなく「根拠(倫理)」の方を)示さなければならない。美的判断と倫理的な判断とはまったく繋がりがないわけではないが、しかしだからこそ一層、両者を安易に混同しないように十分に配慮しなければいけないと思う。)
ただし、倫理的判断とは別に、よくわからないけどなんか気持ち悪いからとりあえずは距離をとっておこうという実践的な判断は自分を守るために有効(必要)だろう。
(追記。芸術作品においても、美的な判断として高く評価できない、退屈、という評価と、倫理的な判断として批判されるべき、という評価とは、否定的な評価のあり方としても根本的に違う。ぼく個人の価値観としては、倫理的には高く評価されるべきかもしれないが美的な判断としては退屈、という作品に強い関心を持つことはできない。)
(ここで「美的判断」とは、美醜の判断ということではなく、芸術作品における感覚的な質の判断のこと。念の為。)