⚫︎『おやじキャンプ飯 京都編』があまりに素晴らしかったので、『おやじキャンプ飯 和歌山編』を観て、『おやじキャンプ飯 滋賀編』を四話まで観た(まだ、あと二話分残っている)。やはりと言うか、「京都編」と比べると、続編、続々編は、つまらないとは言わないが、普通かなあ、と思ってしまう。
「京都編」が、おやじと(ほとんど実在しない妄想であるかのような)娘の話で、「和歌山編」が、おやじと(別れた)妻の話で、「滋賀編」が、おやじが新たに女性と出会う話で、という風に大きな構成としてはなっていて、「京都編」ではほとんど世捨て人のように孤独だったおやじが、徐々に、俗世間というか、「社会復帰」の方へと寄っていく感じになる。「滋賀編」は最後まで観ていないので、これを書いている時点で結末が(出会った女性とおやじとが)どうなるのかはわからない。
(お話の展開としては、こうなるのはわかるが、ぼくとしては、孤独な世捨て人おやじのままでシリーズが進行して欲しかった。)
「和歌山編」では、妻との過去の出来事が断片的に回想として挿入されるのだが、この、ドラマ的要素が中途半端で、これだったら回想にはしないで、別れた妻の痕跡がキャンプ生活の中でもちょこちょこっと出てくる、みたいな感じで良かったのではないかと思った。ただ、テレビを見なくなって随分経つが、昔テレビでよく見ていたような人たち(角野卓造と温水洋一)が、いい感じの爺さんになっているのが見られたのは良かった。角野卓造など、70年代のアメリカ映画に出てくるワイルドな爺さんみたいになっていた(もちろんそのような「役」ということではあるが)。橋田壽賀子感はゼロだった。
(この、角野卓造の徹底的な孤独感に触れたことで、おやじは、徐々にそれとは逆方向に移動していくことになるのだった。)
「滋賀編」で、キャンプ場を一人で切り盛りする女性の娘と、おやじとが絡むエピソードが良かった。「京都編」の娘が妄想的な娘だとすると、こちらはリアル娘という感じ。パンを焼く中年女性のエピソードも良かった。この二人の女性は、これまでおやじがキャンプ場で出会ってきた、社会とはどこか相容れないような人たちと根本的に違っていて、陽の人、だ。
この二つのエピソードによって、おやじの「世捨て人」感はほぼなくなり、すぐにでも社会に復帰できそうな調子になる(で、あと残り二話)。
(ほとんど、人里離れたキャンプ場だけが舞台で、登場人物も数人くらいしかいない、とても規模の小さいように見える作品なのに、クレジットタイトルには、大勢の人の名前や、企業のロゴがズラーっと並んでいて驚く。映像作品はこういうところが面倒だなあと思ってしまう。少人数では成り立たないのかなあ、と。規模が小さくても、有名俳優に出てもらうとこうなってしまうのか。)