2024-11-19

⚫︎『おやじキャンプ飯 滋賀編』の5話と6話を観た。予想外に素晴らしかった。シリーズの締めくくりとして、これ以外にないという終わり方だと思う。まさか、「京都編」では妄想としか思えないほどに理想化されていた娘が、最後の最後に「邪魔者」として現れるとは思ってもみなかった。娘が現れた瞬間に「そうくるのか」と声が出た。「京都編」があってこその展開で、対比によって効いてくる。

(娘自身の意思としては、おやじの背中を押しているのだが、「娘の存在」そのものが、おやじを逡巡させ、踏みとどまらせた。もし、娘がキャンプ場を訪れていなかったら、おやじと管理人は結ばれていたかもしれない。)

仮に、最後の最後での「娘」の介入がなくて、「寅さん」みたいな定型として「おやじがフラれて終わり」だったとしたら、「京都編」が素晴らしかっただけに、なんと通俗的な着地点なのかと、がっかりしたと思う。そもそも、中年の男女の「淡い思い」をどう決着させるのかということは、物語としてはめちゃくちゃ難しい。どうやっても、嘘っぽいか、通俗的になってしまう。だから、最後の2話分を見るのが怖かった。

おやじがフラれて、おやじの孤独な旅はまだまだ続く、という通俗的な終わり方(寅さんエンド)にならなかったのは、おやじにとって俗世との唯一の結びつきとして「娘」という存在があったということからだろう。ただし、「京都編」で「娘」は、ほぼ死者と同値であるような位置にあった。「滋賀編」を「社会復帰編」として構成するのであれば、「娘」を死者の位置から生者の位置へと移動しなければならない。娘は、宇宙(宇宙ステーション)にいるのではなく地上にいて、しかも「ロケット計画がうまくいっていない」という「現実」の中にいる、ということになる。そのようにして「娘」は、「邪魔者」として現世での生を得る。

⚫︎6話の、中山忍近藤芳正のツーショットの、息を飲むような長回しは素晴らしかった。素晴らしかったのだが、ただ、そこから近藤芳正のバストショットに繋ぐモンタージュには、やや不満がある。カットが変わってから、近藤芳正の動き(語り)が始動するのだが、それだと、長回しの持続時間が編集による恣意ということになってしまう。そうではなくて、近藤芳正の動きの始動までを長回しで押さえてから、(アクション繋ぎ的な感じで ? )カットが変わるのでないと、場面の説得力が落ちてしまうと思う。

(ドローンによる、キャンプ場の俯瞰カットも驚かされた。)

⚫︎最後まで観て、「和歌山編」がややイマイチかなあと思うものの、シリーズ全体としてはかなり素晴らしいのではないかと思った。一番好きなのは「京都編」だが、話の収め方として、「滋賀編」にも大変説得力があったと思う。

「京都編」における「娘」はほぼ死者と同値であることによって、おやじは世捨て人であり、「和歌山編」において「妻」は過去であって、現世を匂わせつつもそれは過ぎ去ったものである。しかし「滋賀編」における「女性管理人」への感情は生臭いものであり、現在でもあって、おやじを俗世へと強く誘引する。しかし、おやじと俗世とを強く結びつけるのは、女性管理人ではなく娘だった、と。