2024-11-22

⚫︎デマを言うことには何のコストもかからない。ただいい加減なことを(繰り返し、執拗に)言えばいい。対して、デマをデマだと証明することには、大きな労力とコストがかかる。まずここに非対称性がある。また、デマを言う人は「〇〇はデマだ」というデマを言う。それに対する側は、『「〇〇はデマだ」というのはデマだ』と言い返すことになる(そうするしかない)。外から見れば、「お前の言うことはデマだ」「お前の言うことこそがデマだ」と言い争っているように見えて、どっちもどっちだという印象を持つ。この段階で既にデマの勝ちだ。デマを言う側からすれば、自分のついた嘘を信じさせなくても、事実とされていることを揺るがして、何が本当なのかわからないという混乱を作り出し、信頼性の土台を崩しさえすれば良い。「信じるか信じないかはあなた次第」という状況こそがデマゴーグの活躍する世界だ。すべての人を騙す必要はない。何割かの人が嘘を信じてくれれば、黒を白と言いくるめられる可能性を持つ素地が生まれる。

(「黒を白だと言いくるめられる素地」を持つ状況を、繰り返し何度も作り出せれば、そのうちの何度かは「大勢の言いくるめ」にまで発展するだろう。そもそもデマは大してコストがかからないので、何度でも繰り返せるし、全勝である必要はないのだ。)

⚫︎混乱する状況を整理して、状況や文脈を理解しようと、情報を集め、筋道を見出そうとする人がいるとする。その人が、何とか筋道が立っている説明をしようと試みる。この時に、その文脈とは無関係な事柄、または、まったく無関係ではないが瑣末でしかない事柄を(事情通を装って)わざわざ話題にあげ、「〇〇はどうなってるの ? 」「〇〇っていう情報もあるけど」「〇〇には⚫︎⚫︎っていう側面もある」とかいって、ノイズにしかならない細部をぶつけてくるという手法はよくみられる。筋道を見つけようとする試みに対して、さも、建設的に協力するような素振りで、わけ知り顔で掻き回すノイズを持ち込む。すると、その議論を追って、何とか筋道を理解しようとしている人は、「え、それどういうこと ? 」と混乱し、「なんかややこしくてよくわからないや」となって文脈を見失い、「もういい、オレ、頭悪いから無理」と、筋道を追おうとすること自体を断念してしまったりする。そしてけっきょく、何となく「印象操作」に乗っかって判断することになってしまう。

(デマを用いて印象操作しようとする人たちは、それを正そうとする人たちに向かって「印象操作だ」と非難する、という無限鏡地獄もある。)

⚫︎嘘をつく人は、人々の頭を混乱させたり、「どっちもどっち」という印象を与えさえすれば勝ちであり、それは「勝つことの容易いゲーム」だ。対して、嘘を嘘だと指摘し反論する人は、「間違いが間違いであることを証明し、かつ、正しいことを多くの人に納得してもらう」必要があり(とはいえこちら側にも、嘘や矛盾や対立や齟齬がまったくないわけではないし一枚岩でもないのは当然のことだ)、それは「勝つことが非常に困難なゲーム」であろう。つまり、「勝つことが容易いゲーム」を行なっている人と、「勝つことが非常に困難なゲーム」を行なっている人とが戦っているので、まったくフェアではない非対称的なゲームになっていて、後者が勝つことは極めて困難だ。

⚫︎何にしろ、土台を壊しさえすれば勝ちというチームと、壊された土台を作り直し、その土台への信頼性を確保した上で、土台に則って自らの正当性を主張しなければならないチームとの戦いで、そりゃあ後者はなかなか勝てねえよなと思う(だから、勝ち馬に乗りたい人は前者に流れるだろう)。

私たちは倫理や信仰を必要としている。こう言えば馬鹿どもは笑うだろう。しかし私たちが必要としているものは、別の何かを信じることではなく、馬鹿どももその一部としてあるこの世界を信じることなのである。