⚫︎なんでみんなそんなに「賞」が好きなのか、と不満に思う。「賞」なんて、権威主義そのものではないか、と。勲章は、王様が家臣に対して、その働きを褒め称えるために与えるものだ。王様のために尽くした者がもらえる。賞もまた同じ構造で、賞を与える権威の側が、常に、賞を受ける人の仕事よりも偉いという前提でできている。もっといえば、賞などというものは、家父長制的な権威があって初めて可能になる。「賞を受ける」ということは、それを与える側の権威を受け入れるということであり、自分が、その権威の下に(権威によって格付けされる序列の下に)あることを認めることだ。
(「賞を獲る」という、あたかも主体的、能動的であるかのような間違った表現が、賞を受けることの「権威主義的な受動性」を見えなくしてしまっている。)
昨日の日記の続きとしていえば、(「解説」と同様)「賞」は社会的権威であり、それは教祖-信者な権威よりはマシなものであり、社会にとって必要なものではあるだろう(「権威」が悪だ、というのではなく、たとえば、アカデミズムは権威の下にあり、権威がなければ維持できないだろう)。「賞」が何かしらの印づけ(差異づけ)の機能を持ってもいいと思うし、「賞の権威」がないと、ただただ「売り上げと資本主義」ばかりの世界、あるいは「口先が上手い奴」ばかりがのさばる世界になってしまうだろう、というのもわかる。その分野に不案内な人に対して、「賞」の存在が入口となりガイドとなるという側面もある。あるいは、ノーベル平和賞が一定の政治的な力を持つ、というようなことには意味がある。
(「賞」的権威主義は、確かに、「金の力にモノをいわせる」勢力に対する抵抗という意味はあるだろう。)
ただ、あまりにもあからさまに、あまりにも素朴に、あまりにもなんの抑制も躊躇もなく、「受賞は素晴らしい(「推し」が受賞して嬉しい)」という態度を、普段はある程度批評的で知的であったりするような、フラットであるかのように振る舞う人たちがとることに対して、そこにわずかの自己矛盾すら感じていないのはどうなのか、と思ってしまう、ということだ。アイロニカルな屈折、みたいなものさえないのか、と。
(賞・権威が悪だというのではないが、そこに明らかに―-「権威」によって正当化されたことになっている-―理不尽な権力の作動があることを少なくとも自覚はしようよ、ということだ。)
(ぼく自身、大きくない役割とはいえ「賞」にかかわっていないわけではないので、確実に自己矛盾があるのだ。)
結局のところ、みんな水戸黄門の印籠大好きかよ、という気持ちになる。
(たとえば知り合いが何かしらの賞を受ければ素直に「おめでとう」と言うだろう。しかしそれはその人が「賞を受けたこと」を喜んでいるのではなく、「賞を受けたことによってその人が得られるであろう様々な良いこと」に対して喜んでいる。賞を受ける人は、賞金ももらえるし、宣伝にもなるのでラッキーだし、これからはきっとギャラの単価も上がるだろう。その人にとっての利益になるならば、それを拒否する必要もない。そこは、プラグマティックに処理すれば良いと思う。)
(受賞式には出ないが、金だけはもらう、というボブ・ディランの態度は頼もしい。)