⚫︎Netflixで『ペドロ・パラモ』(ロドリゴ・プリエト)。これはひどかった。世界中の『ペドロ・パラモ』好きの人が怒っているのではないか。Netflixで『ペドロ・パラモ』が映像化されるという話を知った時、小説から「あらすじ」的なものを抽出して、それをべたっとドラマ化するみたいな作品になるのではないかという嫌な予感があったのだが、そういうものですらなかった(嫌な予感をさらに下回る)。『ペドロ・パラモ』のような難物を、何の狙いも、戦略も、コンセプトもなく、ただ、「中途半端に(表面的に)原作に忠実に映像化」するなんてあり得ないだろう、という感想だ。何にも考えていないに等しいと思った。
おそらく、小説を読んでいない人には何が起こっているのかさっぱりわからないのではないか。断片的な場面が、ただ支離滅裂に並んでいるようにしか見えない。もちろん、小説を読んでいるから、ああ、これはあの場面で、あれはこの場面なのか、ということはわかるが、それがわかったから何だというのだろう。小説自体が、断片的な場面の非連続的な羅列で出来ているのだが、それをそのまま映像でなぞればいいということはあり得ない。
小説が、この小説として、このような形になっているということの意味を、映画として、どのような形に変換するのか、その変換がどのように面白いのか、というのが、小説をわざわざ映像化することの意味だと思うが、そういうものがまったくみられず、ただ、小説の場面を大した考えもなしに映像に移し替えて、割りと忠実に並べてみました(この「忠実さ」も「割りと」でしかない)、というものにしかみえない。映画(映像)作品として自律していると思えない。
たとえ、断片的な場面が支離滅裂に並んでいるだけだとしても、それぞれ個々の場面が工夫して作られていれば、まだ面白く観られたと思う。しかし、場面場面の演出や構成をみても、通り一遍の凡庸な演出、凡庸な場面でしかない(単調な切り返しを用いて「セリフで説明する」映画みたいになっている)。この小説で最も美しい場面の一つである、少年時代のペドロ・パラモがベッドで寝ていて父の死の知らせを受ける場面が開始から早い時期に出てくるのだが、この場面をこんなにいい加減に撮るのか ! 、と呆れるような作りだった。この時点でまったく期待できないと思った。
ただ、相当にお金がかかっているようで、美術などはすごく豪華で、さぞ贅沢な撮影だったのだろうとは思う。演出があまりに凡庸なので、その豪華さがより空虚を際立てている。小説の表面づらだをなぞっただけの、豪華だがひたすら空虚な映像が、手応えもなくただカラカラと流れていく。登場人物たちの深みなどもまるでない。これよりもっともっと少ない予算でも、もっと野心的な作家が作ればこんなに悲惨にはならなかっただろう。
ラストシーンも、小説に忠実ではあるのだが、忠実なのは表面だけで、そもそも、アブンディオがなぜ、どのような経緯で、あんなにベロベロに酔って、ペドロ・パラモを刺すことになってしまうのかが、まったくわからない(そもそも小説を読んでいない人にとっては「え、こいつ誰 ? 」でしかないだろう)。こんないい加減なラストある ? 、と唖然とした。