⚫︎いまどきではさすがに、笑いの持つ加害性については、多くの人が敏感になっていると思うが、一方で、笑いの持つ「権力性」については、十分に意識されていないように感じられる。笑いとはまず、排除の笑いであり、愛想笑いであり、同調笑いである。笑いは、その場に強い同調を作り出す。
例えば立花孝志が気持ちよさそうにクソみたいな下品で攻撃的なことを言い、その周りで信者たちが笑ったり、手を叩いたりするおぞましい動画を見て、これこそが「笑いの本質」なのではないかと感じる。聴衆が笑い、笑いに包まれるともうその場が支持の空気一色になって、批判者は孤立させられる。
このような「笑いの作る同調性」が、「おもろい」権力主義(「おもろい」至上主義的な権力)のようなものにつながる。笑いを取れる「おもろい」オレサマが、「おもろない」お前らを下に見るのは同然だ、というような。「おもろない」お前らに、「おもろい」オレサマを批判する権利などない。オレサマへの批判は「おもろなって」から出直してこい、というような。また、「おもろい」を「おもろない」お前らが分節化、言語化できるはずはない、「おもろい」を分節化する権利は「おもろい」オレサマにしかない、と。
自分は貧乏なのに、お金持ちの経営者の思考を内面化してしまっている人がいるように、自分が「おもろい」わけでもない「お笑い好き」の人が、「おもろい」権力主義を内面化してしまっている。「おもろい」人を信仰し、「おもろない」人をバカにする。しかもそこでは「笑い」がすべてを肯定し、「おもろい」が成立する基盤への批判的考察はない(「おもろい」自体への考察はあっても、「おもろい」権力主義の成立基盤への考察がない)。このような傾向が、例えば松本人志を権力モンスターに仕立て上げてしまうのだと思う。そして、このような指向性は、笑いの持つ強い「同調性」によって支えられていると思われる。
松本人志が「優れたお笑い作家・プレイヤー」だとして(この点について異論はない)、だからといって無制限に権力を行使して良いことにはならない。優れた作家(優れたプレイヤー)が、一定以上の発言力を持つのは当然だとしても、そこには制限があるべきだろう。しかし「おもろない」奴が「おもろい」人に文句をつけることができないのならば(そして、その「おもろい」権力主義の成立基盤が批判的に検討されないならば)、いったん「一番おもろい」と確定された人には、無批判に無制限の権力が与えられる。少なくとも、必要以上に権力が拡大するのを誰も止めることができなくなる。これは、プレイヤーの問題である以上に支持者(お笑い好きの人)の指向性の問題であるように思う。お笑い好きは、敏感にその場の権力関係を察知し、権力に靡く。「おもろい」人の威を借りて、「おもろい」を(批判的に)分析しようとする「おもろない」人に対して強く当たる。
そして、このような「おもろい」権力主義が、実際の社会の中での吉本興業の権力の拡大と重なって見えてしまって、「お笑い」に他する強い忌避感が、ぼくにはある。そこに引っかかって、「お笑い」を好意的に見ることができない。
(もちろん、それが「笑い」のすべてだとは言わないが、看過できない勢力であることは確かだと思う。)