2024-12-11

⚫︎見ることが足りないと、雑になるし、甘くなる。だけど、見すぎると見えなくなる。細かく執拗に繊細に見ればいいということでもない。どの程度見るのか、というか、そこから「何を」見るのが適当か、ということが、まず大きな問題である。というか、それこそが問題である。「分子の運動」と「熱」、「解像度」と「粗視化」という問題。

⚫︎そこで、適当な解像度を決める基準点というか、照準点の一つとして、「わたしの生」「わたしの身体」が浮上する(ベルクソン的な縮減)。でもそのとき、たとえば「わたしの身体」というときの「わたし」をどのような構成物として考えるのか、が問題となる。「わたしという形式」からして、それは全然自明のものではない。

⚫︎「わたし」ってなんのこと ? 、なにを「わたし」と呼んでいるのか ? 、「わたしという形式」について考えることと「このわたし」について考えることとは、どの程度重なってどの程度ずれているのか ?  、「ある身体」あるいは「ある生」が「わたしのもの」であるというのは、どういう意味なのか ? 、わたしが問題にしている「わたしの問題」が、あなたが問題としている「わたしの問題」に貢献できるとしたらどんな形でなのか ? 、など。

⚫︎「わたし」は絶対的な限定であり、しかし同時に底が抜けている。ゆえに再び、なにを、どの程度見ればいいのかわからなくなる(根拠がなくなる)。