⚫︎タルコフスキー『サクリファイス』をDVDで。久々に観て思ったのは、昔観た感じよりも短いな、ということだった。前は、取り止めのない時間がどこまでも続くように感じていたが、多分、タルコフスキーの意図というか、「やっている(やろうとしている)こと」を以前よりも汲んでみられるから、ここからここまでが一つの単位で、ここから次のターンに入るのだな、と、時間を分節化して感じ取れるようになったからなのだろう(それは必ずしも良いことではないが)。
タルコフスキー独自の時間の流れとリズム、質感、まさに薄いグラスが振動してキーンという高い音を立てるような緊張の感覚、極めてトリッキーなモンタージュを、久々にたっぷりと味わった。
(タルコフスキーのモンタージュはいかがわしい奇術師のようにトリッキーだと思う。)
改めて驚いたのは、ラスト直前の、燃えている家を含むロングショットの長回しで、これ、ほとんど相米の『ションベンライダー』みたいじゃん、と思った。タルコフスキーが相米を観ていたとは思えないが。この場面で、それまで周到に、端正に積み上げてきたピリピリと緊張した(そしてトリッキーな)演出・構築が一気に裏切られるというか、(まさに家が燃えて崩れ落ちるように)破壊される様に感動した。タルコフスキーの映画が、このような即物的でコメディの追いかけっこみたいな運動性を捉えたことは、この映画のこの場面以外にはあまりないのではないだろうか。この場面(この長回し)があることによって、この映画は傑作なのではないかと思う。
さらに思ったのは、最晩年のタルコフスキーに濃厚にある保守の感触だ。「保守」とは本来こういうことなのではないか、と。最後のタルコフスキーは、ロシア人として「保守」だったのではないか。
タルコフスキーが、初めから保守的だったとは思えない。ソ連時代のタルコフスキーは明らかにアバンギャルドな人だろう。しかし、亡命後のタルコフスキーは、(ジョナス・メカスがリトアニア人として「保守」であったのと同じ意味で)保守であったのではないか。ここから先はいい加減な口から出まかせだが、つまり、逆説的だが、保守とは、亡命を余儀なくされるような場合によってのみ、腐ることなく保守であることをまっとうできるというようなものなのではないだろうか。
(追記。特に、主人公がマリアに対して語る「病気の母」と「荒れた庭」のエピソードに、タルコフスキーの保守性を感じる。というか、マリアという人物の存在そのものが、とても保守的であるように思う。彼女が世界を救うというだけでなく、ラストの家が燃える場面で、主人公にとって「自分がマリアから見られている(マリアがその場に存在している)」ことが、彼の「世界への信頼」にとても重要な要素であるように感じられる。自分の死後にも木に水を与え続けるであろう「子供」の存在よりも、「この世界が存在する」ことと同じくらい確かであるような「マリアの存在」が、主人公にとっては救いであり、「世界への信頼」の根拠であるように思われる。このような形での「世界への信頼」のありようが「保守」であるように感じた。)
(自分が救急車で運ばれていくのを、マリアが見ている。マリアに見られている自分が存在し、世界には「わたしを見る」マリアが、わたしの死後も存在するだろう。そういう形での「世界への信頼」。)
⚫︎主人公の部屋は二階にあるはずなのに、郵便配達夫がいきなり窓の外に立っている場面があって、ここの空間の整合性はどうなっているのか ? 、と疑問に思うのだけど、実は郵便配達夫が梯子をかけて二階のテラスまで登ってきたことが後で分かり、さらに、この梯子がその後の展開で重要なアイテムになる。いわゆる伏線とは異なるが、こういう仕掛け・構築が随所にある。さらに、いきなり窓の外に郵便配達夫が現れる場面はモンタージュもすごくトリッキーで、おお、やられた、と思う。一見、深刻ぶった演出のようでいて、トリックを仕掛けることに嬉々としているかのような感じがあるのが良い。
⚫︎ジョナス・メカスの「保守」性について。