2024-12-23

⚫︎『海に眠るダイヤモンド』、1話から5話まで観た。以前、1話だけは観ていたが、改めて最初から通して観た。まず何より、ホスト役の神木隆之介が素晴らしい。絶対にホストに向いてないのに、他にできることもないし、絡め取られてこの世界から逃げることもできない、なんというのか「絶対的受動性」みたいな性質が、彼の風貌ひとつで的確に表現されている。彼の頭髪を金色にして、ホストの役をやってもらおうと思いついた人はすごい。

1話を観た時は、何か複雑なことをやろうとしているのかと思ったけど、過去(1955年~)と現代(2018年)が並行して進むという以外は、特別に込み入ったことをやろうとしているわけではないようだった。むしろ、野木亜紀子にしては捻りの少ないストレーなドラマだと思う。ただ、現代のパートの宮本信子が、過去のパートの誰(杉咲花池田エライザ、土屋太鳳)であるのかが、5話の終わりになって初めて明らかになって、それ以前は三人のうちの誰でもありえた(というか、3人を集約したような人物だった)、という仕掛けはある。

構図はシンプルで、一方に、戦後から経済成長期の日本という環境で生きる若者たちの話があって、もう一方に、「戦後10年という時期に若者だった老人」と「現代の若者」との交流が描かれる現代の話がある。戦後のパートは、端島(軍艦島)という特殊な場所を舞台にしているが、端島は、ある意味で、戦後の日本の状況を濃縮して極端にしたような場所と言えるので(デフォルメされ、モデル化された戦後日本みたいな場所、中上健次の「新宮」をさらにコンパクトに凝集したかのような)、戦後史とその成れの果てとしての現在が対比されている構図だと言っていいだろう。

(戦後と現在は、地続きであるが、異世界であるかのように違いもする。この対比だけで、まずは面白い。)

ただし、大上段に、大きな話としての戦後史を描くのではなく、端島という極端な環境にいて、それぞれ微妙に立場が異なっている5人の同世代の人物を、それぞれの視点からきめ細かく描くことで、戦後日本の環境を立体的に立ち上げようとする感じだ。まずは、この5人それぞれのもつ背景と、5人の複雑な関係の丁寧な描出が、ドラマの中心になる。5人の背景や関係の裏に「戦後史」が張り付いている。

だからメインはあくまで過去(戦後史)のパートで、現代パートの宮本信子は、経済的には大成功しているのだが、自分は道を間違えたのではないかという疑念と共に生きていて、そのあり方が(そのような眼差しが)、過去パートの「今を必死で生きる」若者たちの像に対して、「未来」としてあらかじめ重石のように置かれてしまっている。今を生きている「過去の若者たち」を、未来から確定した過去として眺めている「現代の老人」がいる。

とはいえ、宮本信子も、老人であるとしても、現在において「今を必死に生きている」という進行形にあることは、過去の若者たちや現代の若者たちと変わらない。老人においては、過去のパートと現在のパートとで時間が二重化され、両者が文字通り並行的に進行しているとも言える。つまり、過去と現在という二重の時間を生きる老人と、現在の真っ只中という一層の時間を生きる若者とが交錯する。

老人には、お金があり、(拠り所となって自分を支える)記憶があるが、現在においては彼女もまた若者と同様に(主に家族との関係において、あるいは「現代の日本」のありようにおいて)袋小路の行き詰まり状態にあり、現状を打破したいがどうすればいいかわからないと迷っている点で、若者(神木隆之介)と変わらない。ただし、宮本信子のはお金と地位があり、経験(記憶)もあるので、若者よりの現状を打破するために「とることのできる手立て」の幅は広いだろう。

(さらに、「間違っていた」かもしれない自分の過去が、現代の日本を導いたかもしれないという意味で、現在の若者に対して責任を感じてもいるだろう。それは、過去のパートで國村隼が持っていたような後悔を、現在のパートの宮本信子も持っているということだ。)

このドラマは、一方では、根のない「一層の時間」しか持たない若者が、老人と出会うことで「日本の戦後史」と出会うという話であり、そしてもう一方で、(これはまだ先の展開を見なければわからないが、おそらく)行き詰まった状態にある老人が、若者と出会うことで、(大江健三郎的な ? )「愚行する老人」へと生成変化していくという話なのではないだろうか。

(過去のパートの神木隆之介が、ドラマの主人公でしかありえない「善良(かつ能動的)」な人物であり、現在のパートの神木隆之介が、ドラマの主人公でしかありえない完璧なまでに「空虚(かつ受動的)」な人物であり、このあまりにできすぎているともいえる過去/現在における反転的配置の危ういリアリティを、俳優としての神木隆之介の存在が支えている、という感じはある。)