⚫︎RYOZAN PARK 巣鴨で「保坂和志 小説的思考塾 vol.19」。今回のテーマは「神話・物語・歴史」。つまり、そういうものの力に取り込まれない思考や行為について。以下は、保坂さんの話の正確な要約ではなく、ぼくが聞きながら考えたこと。
⚫︎「神話」という語は厄介で、使う人によってその意味がかなり異なる。ある時期までは、権力(占領した勝者)によって捏造された、起源や正統性の根拠となる物語が主に「神話」と呼ばれ(例えば「古事記」)、それは主にその虚偽性をあばき、解体するべき対象とされた。しかし、レヴィ=ストロースが分析する神話、あるいは中沢新一の言う「神話的思考」はそのようなものとは程遠く、ある一定のモチーフや(対称性のような)規則はあるものの、音楽の中でフレーズが変化していくように、常に生き生きと動き続ける変化するものであり、その変化の動因が神話の思考であり、人間の精神の柔軟性や力動性を表すものとして捉えられる。
そしてこの違いは主に、その神話を持つ集団の性質と密接に関係する。国家や帝国のような、大きくて強くて硬い集団の持つ神話は前者であり、規模が小さくて流動的な部族的集団が持つ神話が後者であろう。どちらにしても神話は、集団の起源や因果を成り立たせる根拠を示すものだから、大きくて硬い集団は構築的でかっちり硬い神話を必要とし、小さくて流動的な集団は流動的な神話を持つのだろう。そしてこれは、神話が成文化されているかどうかの違いでもある。元来神話は口承的であり、語られるものであるから、語られる度に、そして集団が置かれた状況に伴って、その都度変化する(本来、神話は、「神話的思考」という文法があるものの、その中でどんどん変わっていくものだ)。しかし、成文化される神話は固定され、ゆえに構築的である(整合性を持つ)必要が出てくる。
(例えば、もともと口承的だったユダヤ教の教えが「旧約聖書」として成文化されたのは、エルサレムの民がペルシャによって支配された時で、支配者であるペルシャ側から「お前らのアイデンティティを示せ」と要請されたことによると聞いたことがある。支配者が被支配者にトリセツを要求した。これは、支配者が自分の正当性を主張する「古事記」などとは逆向きであるところが面白い。そして、一度固定されテキストになると、それ自体が「オリジナル・根拠」になってしまう。)
保坂さんは、二十世紀後半の文学において「神話」が前提として良いものとされてきたことを疑い、自分もまたそう思っていたことへの反省を口にする。ここで言われている「神話」とは、世界の起源を示すもの(「起源」があるということを示すもの)であり、それは文化の源泉、精神の深層のようなものを示すとされるもののことだ。その「起源」は客観的な事実ではないものの(「エデンの園」が歴史的な事実として存在したわけではないことは多くの人が認めるだろう)、それはまさに「神話的」に文化や精神を支えるものとしてあるとされる。例えばハイデカーは、起源を賛美し、源流に近いものほど濃く、真実に近いと考える。だけど、そもそも「起源がある」という思考法そのものが「神話」であり、我々はそれにとらわれてしまっているのではないか、と。
ここで起源の根拠としての神話とは、おそらくネイションとしての国家の起源ということと、どうしても繋がってくる。ただここで保坂さんは、いきなりネイションの起源としての神話の批判みたいなことが言いたいわけではないと思う。むしろ、この話の流れからして当然ネイション批判の話につながるでしょう、というような理路のあり方(因果の連鎖)に対して警戒感を持っている、という話でもあるのだと思う。
「起源の神話」の批判と言った途端に、起源とは別だが、それと密接に関連している「因果」の物語の圏内に巻き込まれる。レヴィ=ストロース的な神話は、起源を語りながら、その起源がどんどんずれて、移り変わっていく。批判するのではなく、「起源」の磁力に巻き込まれないようにあること。批判するのではなく、それに抗する動きの中にあり、そのような動きを実践すること。
⚫︎神話が、起源を、源流を、深層を捏造するものだとすれば、「物語」は「因果」を捏造する。だから、神話の次に物語が検討される。物語とは、因果によって結びつけられる複数の出来事の連鎖であり、その展開であり、そして、それらをまとめてもう一つ上位の大きな因果関係(原因と結果、問いと答え、困難と乗り越え、状態1から状態2への変化・成長など)を作り出すことだ。だけどその時、因果が物語を成り立たせるだけでなく、物語が因果を正当化してしまっている。
物事は本来、無数の要素の絡まり合いと相互作用によって進行するのであり、その複雑な絡まりと作用の全体をくまなく知り、意識化することは人の認識能力を超えている(シミュレーションを成立させるには莫大なデータの入力と莫大な計算量とそれを集約・表現化するアルゴリズムが、つまり計算機が必要だ、そして現状、我々は一週間後の天気すら正確に予測できない)。物語とは、その莫大な絡まり合いを、人に認識可能な要素にまで大幅に縮減し、粗視化した上で、人に理解(了解・共感)可能な因果によって結びつける。物語が示す因果関係とは、現実の成り行きに対して、あらすじをさらにあらすじ化したようなものにすぎない。
因果・物語は、自分が納得したり、人を説得したりするためには有効(必要)で、それは社会を構成するコミュニケーションを作動させるために必須のものではあるだろう。だが、ゆえにそれは、すでに(その時代の支配的な)社会的了解によって汚染されている。たとえば中井久夫が、治療の時に因果・物語は立てずに、ただ「時間的近接性」だけを見ると言っているとしたら、それはおそらく、無数の要素の絡まり合いと相互作用を、(社会的了解による)予断なく、できる限り繊細にそのまま見ようとする(体感しようとする)、ということではないかと思う。
(弱者や少数者について語ろうとする物語の、その「物語の文法」がそもそも多数派のものではないかという、保坂さんがよく書いている疑義がそこに関係する。強く主張する人々によって作られる社会で、ぼそぼそと語ることこそが少数派だろう。ただし、それでは決して社会的には成功しない。ぼそぼそと語りつつ、どうやって自分が存在できる最低限のスペースを確保するのか、という大きな問題があるのだが。)
(「社会」的な視点から考えるならば、社会にはなるべく質の高い物語が必要だということにもなる。人は、質の低い、安直な物語ばかりを摂取していると、現実も質の低い物語のようなものとして受け取ってしまい、自分もまた、質の低い物語の人物のように短絡的に行動してしまう。)
ここで、いつも出てくる特権的な名前がカフカだ。実際、カフカほど潔く「完成」とか「完結」という概念と無関係に書き続けられた作家はいないのではないかと思う(完成や完結は因果的なものだろう)。書けそうになったら書き出して、書けなくなったらそこでやめる。あるいは、行き詰まったら適当に話題を変えて続ける。辻褄が合わなくてもいいし、何も解決しないままで放り出してもいい。そのようにして書かれた断片が山のようにあり、しかし、そのような態度で書き連ねていって『城』のような長大な小説も書いてしまう(放り出された断片もあり、またまた長く続くこともある)。ただし、長くは書いても完結はしない。おそらく、完結を目的としていない。完成とか完結という目的無しなのにもかかわらず、書くことに対してずっと高いテンションとモチベーションを保ち続けた。
確かに、『変身』のような、完結性という意味でも完成度の高い作品もあるし、もし、『変身』というわかりやすく完成度の高い作品がなかったらカフカという名前が歴史に残っていなかったのかもしれない。ここで完結性とは、完結しているということを因果的に説明して、納得することが可能である、ということだ。でもそれは、カフカにとって、あるいはカフカを読むことにとって、そんなに重要なことではない。カフカを読むことは常に馴染めない(馴染まない)状態にあるということであり、慣れない場所で戸惑いと驚きに晒され続けることだ。そして、(因果的連鎖・原因と解決のような物語とは別種のものである)そのこと自体が面白い。
(カフカの本領発揮は、「万里の長城」であり「カルダ鉄道の思い出」だ、と。)
⚫︎そして「歴史」。保坂さんはある歴史家(私立高校の歴史の教師)の言葉を取り上げる。「歴史的な評価とは少なくとも50年は経たないと確立しない。だから、歴史の専門家である我々にはまだこれについて評価することはできない」。そのように意味での「歴史」という思考に取り込まれないこと。たとえば、自分は、50年後、100年後の、未だ存在しない来るべき読者に向けて書くのだ、というような考えは、「歴史」を前提にしてしまっているのではないか、と。そして、「歴史」的な考えないということが、戦争に加担しないということではないか、と。
では、「歴史的でない」というのはどういうことなのか。進行中の物事の只中にいて、訳のわからないまま、そこで動いているものの中で行動するということだ、と。それはそのまま「物語的でない」ということでもあるだろう。現在の中で生きる我々は、実際は、そのようにあるしかない。しかし、そのようにあるしかないことはあまりに不安で、取り止めがないので、物語を立てたり、歴史的なパースペクティブを仮構して、そのどこか一箇所に自分を位置付けようとする。
この、歴史的そして神話的なパースペクティブを仮構するということが、とても危険なことなのだ。物語というものが、結局は「誰か」特定の視点から物事を切り取ったに過ぎないのと同様、歴史もまた、ある特定の立場から構築される。物語も歴史も、シミュレーション的な精度に比べれば極めて粗いものであり、粗い分、恣意的な要素が入り込むことを止めることはできない。だからそれは、自分が属する側の根拠を示す神話の代替物となり得てしまう。ゆえに、歴史が必要だとする人によって「戦争」は行われる。あるいは、歴史は「戦争」を正当化し、戦争を肯定するための有効な言い訳となってしまう(たとえばプーチン)。
ここで、「自分は未だ存在しない50年後の読者に向けて書く」というような、一見尊いようにも感じられる態度が、場合によっては戦争を肯定するかもしれないような「歴史的」な思考と地続きなのではないかというのが、おそらく保坂さんの持つ疑いなのだと思う。そこから、歴史など関係ない、評価など関係ない、という、アウトサイダーアート的なものへの注目へとつながっていく。ただ進行中の物事の只中にいて、訳のわからないまま、そこで動いているものの中で行動すること。
(そこに多少疑問があるとすれば、悪い奴らはみんな歴史に学んでそれを利用している、という感覚があることだ。世界でも日本でも、大物から小物まで、人を騙して人を支配しようとする人たちは、みんな『我が闘争』や『全体主義の起源』を、あるいはそれを効率的に要約した何かを、熟読しているのではないかと感じることが多い。残念ながら、このやり方は今でも有効であり、なんなら、今こそが最も効率的に有効であるように思う。そして、それに対してどう抵抗すればいいのかという「歴史的」な正解例は未だない。「歴史」的に見れば、ナチスがたまたま戦争に負けてくれたに過ぎないし、チャーチルの側にたまたまアラン・チューリングがいてくれた、というだけのことなのだ。)
⚫︎唐突だが、ここまで書いてきたこと、巣鴨で保坂さんが語ったさまざまなことを、真正面から受け止めるようにして書かれているのが、昨日までの日記で検討してきた戯曲『想像の犠牲』(山本ジャスティン伊等)なのではないかと思う。50年後に向けて書く、というよりも、今、ここが、すでに「50年後の予兆」としてあるのだ、というようにして書くこと。保坂さんがここで提起している「歴史的」ではなく書くということを、いわゆるアウトサイダーアート的なものとは違うものとして成立させようとしているように思われる。