2025-02-15

⚫︎何か面白い最近のミステリはないだろうかといろいろ調べているうち、『知的ジャンクフード 非王道ミステリと糞世界の嗜み』というタイトルの本が書けないだろうかという妄想が湧く。真っ当な哲学や芸術の裏で、罪悪感と共にこっそり食べる悪魔的魅惑の香るジャンクフード(「ツインピークス」のチェリーパイのような)としてのミステリについての本。

(ここで「糞世界」とは、ミステリの世界が糞だというのではなく、我々が生きているこの糞のような現実世界において、その「糞」や「屑」ですらも「嗜んでしまおう」という態度として、ある種のミステリが存在するのではないか、という意味だ。)

以下、妄想の暫定的目次。「序 後期クイーン問題(≒ポストモダン)が終わった廃墟で」「第一章 糞世界の中心で絶望を嗜む 米澤穂信」「第二章 世界を肯定しなくても生きていけるための技法 メフィスト賞とその末裔(イヤミスバカミス。クソミスの世界)」「第三章 「現実逃避」で逃げ切ろう 新本格とその末裔(「形式」を弄ぶ変態たち)」「第四章 王道としての麻耶雄嵩」「終章 ニヒリズム(虚無)ではなくアイロニー(世界への悪意ある嗤い)を」。

妄想の目次でわかる通り、米澤穂信麻耶雄嵩を二本の軸として現代のミステリ(のなかのある傾向)について考え、最悪の世界の中で、絶望をさえ「嗜んで」生きていこうとするあり方について考える本。米澤と摩耶に挟まれた二章、三章に新しい作家の作品についての考察が入ることになるだろう。

(数々の大物を、まったく扱わないか軽くみることになるが、正統なミステリ史やミステリ地図を描くのが目的ではない。あくまで「にわか」の書くミステリ本だ。)

(麻耶雄嵩の章のみ、内容を明示するタイトルでないのは、摩耶の小説のモチーフが多岐に渡っているのでさまざまな主題を検討したいと考えるから。たとえば、神様シリーズには、登場人物として「神様」がでてきてしまう。同様の試みとして、筒井康隆モナドの領域』、森博嗣真賀田四季シリーズ」があり、これらと比較検討すると面白いのではないかと思う。厳密には、真賀田四季は「神」と明示されてはいないが、ほぼ全能であり、実質的には神と同等の存在として描かれている。ただし、このときに検討されるのは、一般的な「神の問題」ではなく、小説の登場人物として「全能の神」が出てきてしまった場合に「小説(あるいはフィクション)」はどうなってしまうのかという、小説の「形式」(というか「形式の限界」)の問題になるだろう。そしてこれは摩耶の小説が持つ多くのモチーフの一つであり、別のモチーフも検討されるだろう。)

(上と似たコンセプトのテキストとして、佐々木敦『それを小説と呼ぶ』第三章「神を超えるもの」があり、前田司郎、筒井康隆、ロン・カリー・ジュニア、そして青山拓央や入不二基義などが取り上げられ、検討されているが、それとはまた違った視点が得られるはずだ。ぼくはこのテキストを読みながら、これを筒井、森、摩耶で考えたら面白いのではないかと思ったのだった。)

(誰でも思いつくようなことだが『夏と冬の奏鳴曲』と『虚無への供物』との比較検討とかも。)