2025-02-23

⚫︎『1999年の夏休み』(金子修介)。40年ぶりくらいに観る機会を得た。

決して素晴らしい傑作とはいえないし、クオリティが高いともいえないが、「こう」でなければならない何か、「こう」であることでしか実現できない何かを確実に実現してしまっている作品だろう。

このゆるさ、この隙の多さは、80年代後半、昭和の末期に作られたことと密接に絡み合っていて、今、もっときっちりと、あるいは、このゆるさを再現するように、作られたとしても、たんなる耽美にしかならず、ぼくにとってはとても観られないものになってしまうのではないか。

1999年が「未来」だった時代。この時代にしかない特有の何かを掴んでいて、しかも、その「時代に特有なもの」が、今、観ても(特に懐古的な視点を持たなくても)、一定程度以上に効いているような作品だと思う。

(原案となった『トーマの心臓』を読んでいないし、熱心な萩尾望都ファンというわけでもないので、どの程度「萩尾望都」的なのかはわからないが。)

⚫︎物語の内容は、閉ざされた空間の中での四人の少年たちの愛憎劇なのだが、少年の役を少女たちが演じている。しかも、愛憎劇をシリアスに上演するには、演じている女性たちの年齢や見た目が明かに若すぎる(幼すぎる)。役を演じているというより、人から(大人から)「やらされてる」感が強く出ている(「声」が一部吹き替えだということも、「やらされてる」感を強めているだろう)。それにより、愛憎劇の生々しさが縮退し、一種の抽象性が付与されるというか、非現実的な次元で生起している神話的な自動劇であるかのような感触になる(ベタな「耽美」となることが回避される)。神話的といっても仰々しいのではなく、チープであること(「やらされている」こと)によって獲得された抽象性によって、神話的だ。

この、「やらされている」感から生まれる非現実的な質、のありようが、この時期に粗製濫造されていた、アイドルを使って安易に作られるドラマや映画のチープな質感とどこか通じるものがありながらも、しかし、それとは別の次元の質を獲得してもいる。そこにこの作品の特異性があるのではないかと思う。

(追記。「やらされてる」感によって生じる距離が「ベタ」になることを抑制する。ここに日本のアイドル文化の特異性があると思う。もちろん、この「距離」がいつも「良いもの」として機能するとは限らない。)

(この映画とは大きく志向性が異なるが、昭和末期特有の空気感をたっぷりと含みつつ、その「空気感」が現在観てもなお面白いものとして表出される映画に『ビー・バップ・ハイスクール』シリーズがある。)