2025-02-28

⚫︎昨日の日記に、『夏目漱石 美術を見る目』(ホンダ・アキノ)という本を紹介している動画について書いた。夏目漱石の書いた「美術評」についての本だという。本を読んでいないので、動画で著者自身が語っているのを聞く限りで察せられるということだが、漱石の絵画に対する眼がとても鋭敏であったことがひしひしと感じられる。なかでも、小杉未醒(小杉放菴)という画家の「豆の秋」という絵について「奥行き」という言い方で書いていることが興味深かった。以下の画像は動画からのスクショ(オリジナルの作品は失われていて、モノクロ写真のみ現存しているという)。

・【高瀬毅のずばり!真相】『昭和史』と夏目漱石 ~“美術記者”漱石は何を視ていたのか~

https://www.youtube.com/watch?v=oIgbE4Qy_iY

この画像を見る限りで思うのは、あまり洗練されていないナビ派という感じで、ゴーギャンからドニ、ボナール、そしてマティスへと展開していく流れの中にあるように見える。小杉未醒(小杉放菴)の絵を、ネットで検索してパッと見られる範囲で観てみても、一筋縄では行かない変で面白い画家だと思うが、しかし確実に、ポスト印象派以降の絵画の影響はあって、実際、1913年から翌年までヨーロッパに渡っているというから、ナビ派、あるいはプレナビ派的な絵は観ているのだろうと思う。

ナビ派的というのは、要するに遠近法的な奥行きを潰して平面的に絵を構成しているように見えるということだ。だから、漱石小杉未醒の絵から見出している「奥行き」とは空間的なものではない。空間的な奥行きを押し潰してしまうことで、空間的な「解決のつかなさ」が画面に生じ、その空間的解決のなさの中に、漱石は「精神性」をみている。精神性と言ってしまうと精神論みたいになってしまうが、当時としてはそう言うしかなかったのだろう。三次元空間において解決のつかない感覚の中に、空間(三次元)よりも上位の次元のありようを見ている、ということだろう。

(ナビ派のことを「装飾的」だと言う人は、この部分が分かっていないのだと、ぼくはいつも思う。)

漱石がロンドン留学時代に、ターナーやジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」を観ていることは知られているが、当時のロンドンでは、同時代のフランス絵画を観る機会はなかったのだろうか。漱石の熱心な読者ではないので、漱石がフランス絵画について何か書いているかどうかは知らない。

仮に、漱石が同時代のフランス絵画についてよく知らなかったのだとしても、小杉未醒の作品を通じて、同時代のフランス絵画の問題意識と図らずも(鋭敏にも)同調している、ということではないかと思う。夏目漱石ピエール・ボナールとは、どちらも1867年生まれだ。