2025-03-01

⚫︎『木乃伊の恋』(鈴木清順)。実は初めて観た。すごいなあ、というところと、うーん、というところがあった。

中心に、上田秋成春雨物語』の「二世の縁」を置いて、前と後とを現代パートで挟んでいる。だがこの構図は、(脚本の田中陽造というより)おそらく原作である円地文子の小説「二世の縁 拾遺」から来ているようだ。

そもそも上田秋成の「二世の縁」が、強い仏教批判を含む話なのだが、『木乃伊の恋』では、それをさらにえげつなく、「性」への執着という要素を追加して中心に据え、批判というより仏教への侮辱というようなところまでいっているようなひどい話で、しかし、この徹底したひどさこそが本当は仏教的なのではないかとも思えてくる。とにかく、時代劇パートは、観ながら、ひっでえなあ、よくここまでやるなあと呆れつつ、そこが清々しいというか、これが鈴木清順の「地」なんだよなと思う。

ただし、現代パートでは、時代劇パートで好き放題やりすぎたのを回収するかのように、俗流精神分析的というか、70年代の性的メロドラマ的なところに落とし込んでいるみたいになっていて、うーん、となる。「性への執着」と言葉にすればどちらも同じようなことだが、その質がまったく異なっていて、噛み合っていないようにみえる。

(ただし、演出やモンタージュにかんしては、現代パートは無茶苦茶かっこい。)

⚫︎時代劇パートについて。ぼくは「幽霊」は好きだが「ゾンビ」の面白さが今ひとつわからないのだが、これを観て、ああ、ゾンビというのはこういうことなのか、と、少しわかったような気もする。ただしここにあるのは、性的なゾンビ、生臭ゾンビであり、さらには生殖するゾンビでさえある。ゾンビが、女性を求めて徘徊し、性交し、生殖する。ゾンビの子が生まれることによって、一般的な「生殖」というものまで脱意味化するというか、無価値化してしまう。干物であったゾンビが肉化すると、欲望を持つようになり、生殖を行う(乾いた死から湿った生・性へ)。すると、相手の女性の体から、たんなる邪な欲望の化身でしかない虚しい小さな仏が次から次へわらわら湧いて出てきては、ケラケラ笑って、すぐに土へと帰っていく(純粋な欲望の発現とその儚い消滅=乾いた砂・死へ)。生の欲動と死の本能とが循環する運動があるというより、出産の場面ではその二つが一体化して対消滅するかのようなゼロ地点が現れる。それを目の当たりにしてしまった主人公(男性)からは、性行為と生殖の権利が一生奪われる(失われる)ことになる。

だからおそらく、ここには「性への執着」があるのではなく、むしろ、「性に執着するゾンビ」を介した「性・生殖(エロス)の無意味化」があり、去勢(≒現世の対象化)があるのではないか。

⚫︎時代劇パートにおけるゾンビ「入定の定助(にゅうじょうのじょうすけ)」の性への執着は、あくまで機械的、自動的なものだが、現代パートでの性への執着は「老教授の執念」のような個人的なものになっている。

また、現代パートでは語り手(主体)が女性であり、この語り手が老教授の性の執着の対象であり、かつ、この女性もまた、亡き夫に対する性の執着を持っているという相互的な構図になっている。ここでは、それぞれに異なっている(そして、どちらも現実的には不可能である)性への執着・欲望が、その中間地点に「媒介的な幻」を生じさせる(その意味で、ゾンビではなく「幽霊」の話だ)。だから、本来なら決して交わらない、別方向を向いた欲望なのにもかかわらず、媒介的第三項によって(仮想的)コミュケーションが成立してしまうという、「いい話」だということもできる。女性は亡き夫との再会を果たし、老教授は死の直前に思いを果たす。これは、あくまで「人情」のレベルの話だ。

⚫︎人情を超えた、非-人情、あるいは無-人情の世界に踏み込んでいる時代劇パートと、あくまで人情の世界の枠内の話である現代パートとで、対になっているのだとは、言えるのかもしれない。