⚫︎『現代本格ミステリの研究 「後期クイーン的問題」をめぐって』(諸岡卓真)、第二章の『翼ある闇』(麻耶雄嵩)論がすごい。こんなすごいものがすでにあったのか…。これは麻耶雄嵩の読者なら(あるいは「アンチ」の人も)必読だと思うけど、でも、誰でも簡単に手にすることのできるという本ではないというのが困ったことだ。
(たとえば、「新本格」の発信源である講談社が、この本の新装版を文庫にして出したりしないかなあ、とか夢想する。)
この本を読んでいると、最近のミステリ作家の中にも、これを密かなネタ元にしている人がいるのではないと思えるほどだ。実作者的な感覚の強い研究というか。
⚫︎「後期クイーン的問題」とは本来「本格ミステリの不可能性」を示すものだった。しかし実際には、それは90年代からゼロ年代にかけて、さまざまに多様なバリエーションを持つ「(語義矛盾的な表現だが)変格的本格ミステリ」を次々と生み出すもとになる、極めて生産的な概念装置として機能した。「後期クイーン的問題」に対してどのような態度を取り得るのかという問いが、実作の実践や実作者の思考に大きな刺激を与えた。
「後期クイーン的問題」とは原理的な問題であり、基本的にそれを「解く」ことはできない。つまり、「後期クイーン的問題」を意識した実作とは、この問題を「どうやって誤魔化すのか」という実践になる。
(「後期クイーン的問題」はロジックの問題ではなく、フィクションにおける「ロジックとレトリックとの関係」の問題であると、『現代本格ミステリの研究』にも書かれている)
そのバリエーションには、読者がその誤魔化しにできるだけ気づかないように綺麗に覆い隠す、という方向から、むしろ矛盾を大々的に露呈させて世界そのものを歪ませて見せてしまうという方向のものまで、さまざまにあり得る。その過剰な「覆い隠し」や「歪ませ」のあり方や強さの中に、それぞれの作品や作家の固有性が宿る。
これは、どちらの方向であろうと、ミステリという形式に対して多大な負荷をかけることを意味するだろう。ここで行われる、過剰な覆い隠しや歪ませのありようが(その負荷によってたてられる「軋み」が)、それを読む者の感情や実存と共振することによって、おそらくミステリはゼロ年代のサブカルチャーにおいて大きな重要性を持った、のだと思う。
しかし、現在は、それが終わった後の世界だ。今のミステリでは、形式にかけられた負荷による「軋み」と、それを読む人の「実存」とがシンクロしているわけでも、共振しているわけでもない(ように見える)。そもそも、形式が「軋み」をたてているのかどうかも、よくわからない。いや、以前とはかなり異なった共振の仕方があり、それを探る必要がある、というべきか。
(「本格ミステリ」では、謎があり、それが「作中人物(≒探偵)」によって探索され、作中に散りばめられた要素のみを用いて唯一の合理的な解決に至るという展開が、「法」として要請されている。だからこそ「後期クイーン的問題」が発生する。そのような縛りがなければ、そんな問題はない。たとえば、リンチの映画には「後期クイーン的問題」など存在しようもない。特にリンチを持ち出すまでもなく、普通に、ホラーだったら存在しない。人工的に無理やり作った約束を、なんとか無理して守ろうとして四苦八苦しているけど、そもそもその「約束」は必要なの ? 、「読者」でさえ「お話が面白ければいい」としか思っていないのでは ? 、と言ってしまえばもともこもない。だけど、「守れそうもない約束を無理して守ろうとして四苦八苦する」必死の身振りの中から浮かび上がってくる「稀有なもの」があるように思う。これは、自己拘束を快楽とする一種の変態的な欲望でもあるだろう。)
(追記。上の文章は『現代本格ミステリの研究 「後期クイーン的問題」をめぐって』の内容の要約ではなく、ぼくの考えです。念の為。)