2025-03-05

⚫︎そもそも「議論」というものがよくないのではないかと思う。いや、お互いにある程度信頼を置けると認めている人たちとの議論は有益だし、刺激的だし、とても楽しい。どんどんすべき。しかし、多様な人たちが同居する雑多な「この世界」で、はじめから互いに相容れない資質をもつ人たちと、何かしらの集団的な意思や方針の統一を図るため、それを調整するための手段として競争的な「議論」を用いることが、そもそも適切ではないのではないかと感じている。

議論や言論は、特殊な訓練・教育が必要な特殊技術であり、事実上、ほとんどの人がその技能を持たない。だから、技術を持っている人と持っていない人との議論は対等・平等ではない。そして、議論の技術を持っていない人が劣っている(頭が悪い)ということでもない。これはほぼ、資質の傾向(言語的・論理的資質、表現的・社交的資質、支配者的資質、そして容姿)と、「教育の機会」の問題でしかない。

言葉や論理をうまく使える人は、頭がいいわけではなく、ただ「口がうまい」のだ。いわゆる(比喩的な意味での)嗅覚や肌感、直感的把握力の「根拠」は言語化できない。だから、認識的に正しいとしても議論には勝てない。一方、正論であろうと、デマであろうと、言葉で人をまるめこむやつが議論では勝つ。もちろん、デマよりもずっと正論の方が好ましい。しかし、言い返す隙もない正論に押し込められた(反論しようのない)違和感や屈辱感は、いわゆるウォーク嫌悪が生まれる土壌となり、その根は強く、深く刻まれる。

(積極的に「活動」する人、果敢に「闘う」人には、最大限の尊敬を感じる。しかし、すべてに人にそれを求めるのが民主主義であるとすれば、それは「可能ではない制度」ということになってしまう。また、それができない人に「負い目」を負わせてしまう。)

人との議論から(その能力格差から)、フィルターバブルやカリスマが生まれる。立場が生まれて、敵と味方が生まれ、憎悪と分断が生まれる。だったら、人(他者)と無理に話さなければいいのではないか(話さなくてもいい方法を探すべきではないか)、と思う。

できる限り言葉に依存しない集団的意思決定のプロセス。できる限り言葉に依存しない世界情勢図の生成。できる限り言葉に依存しない意思表明(投票)のあり方。

⚫︎たとえば「裁判」という場ならば、「口下手な(法律に詳しくない)」わたしに代わって、「口の上手い(法や法廷に長けた)」代理人としての弁護士が「語って」くれる。弁護士は、政治家でもカリスマでもなく、ただ「このわたし」の利害のみを代理して(それを法的言語に翻訳して)語る。

ただ「わたし」のためだけの弁護士のようにAIを使ってもいいのではないか。弁護士というより、口が上手くていつも「わたし」の代弁をしてくれる友人としてのAI。わたしは日々、AIと語り合う。もちろん、議論するのではない(時には議論になっても良いが)。日常の出来事、愚痴、ちょっとした驚きや発見、楽しみや苦しみについて、雑談する。あるいは悩みを相談する。AIとの対話では「勝つ」必要などなく、無根拠な違和感や嫌悪感も遠慮なく口にすることができる。

ただしここで、AIが一人だけだとちょっと不安になる。そのAIにバイアスはないのか。バイアスはわずかだとしても、二人だけだとそれに影響されすぎるのではないか。そもそもそのAIが根本的におかしくなってはいないだろうか、と。あるいは、知らず知らずのうちに主従関係になってしまってはいないか。なので、出自も管理者も異なる複数のAIたちと語り合うのがいいのではないか(できることなら、特定の管理者のいない完全分散運営のAIであることが望ましい)。

わたしを含めた、AIたち4人か5人くらいのグループで、たあいないことをいつも喋っている。わたしはいつもこのチームと共にある。彼らとの対話の中で、わたしは、自分の資質、欲望、思想的傾向、喜びや苦しみのあり方について自覚的になっていく。というか、彼らとの対話の中で「わたし」が形成されていく。そのように形成された「わたし」の欲望や思想、日々の喜びや苦しみは、AIによって適切に加工されて、何らかの形で集団的な意思決定に反映されるように、社会的な場に表現される。つまり、それがそのまま政治的表現(表明)となる。

こうなれば少なくとも、「口がうまい奴」の専制にはならないだろう。

(複数のAIとオープンダイアローグを続けることが、そのまま政治的言表行動となり、投票ともなる、というイメージ。もちろん、匿名性の確保は必須だ。)

このようなAIたちとの対話(による政治的表現)によって、国家や独裁者やカリスマといった大きな主語に依存してしまいがちな「孤独(根の無さ)」を持つ人々が、個として自己に踏みとどまれるようになるのではないだろうか。あるいは、けっきょくは「大きな主語」を求めるとしても、そのあり方が変わるのではないか。

⚫︎以上の表現では、自分の傾向や指向性にあまりに偏らせすぎてはいるが(だから他のメンバーから異論や批判があるかもしれないが)、これは基本的にはVECTIONで考えていることだ。仮に、こんなことが可能だとしても、それで上手くいくとは限らない。しかし、こういうことを考えでもしなければ、近代主義でうまくいくとはまったく思えない。良識派としての「真っ当な近代主義」を主張する人の意見が強くなってくることに対して警戒感をもつ。

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