⚫︎「後期クイーン的問題」とは ? 『現代本格ミステリの研究 「後期クイーン的問題」をめぐって』(諸岡卓真)、第一章より。
《(本格ミステリでは…)作中の謎は、作中の情報をもとにして解かれるようになっていなければならない。そうでなければ、作品世界内にいる探偵が唯一の解決にたどりつくことができなくなってしまう。したがって、その世界に矛盾があってはならないし、決定不可能な命題が残ってもいけない。つまり、本格ミステリは、それ自体が一個の完全な形式体系になっていなければ、謎解きゲーム空間として成立しないことになる。》
《(…)たとえば、探偵がある手がかりからAという犯人を推理したとする。しかし、その手がかりがBという別の犯人が仕組んだ偽の手がかりである可能性(さらには、Bに罪を被せようとするCという犯人が仕組んだ可能性……)を、作品世界内にいる探偵は論理的に否定することができない。その世界が閉じていることを知り得ない以上、探偵は常に犯人のさらに上位にいる犯人(メタ犯人)が介入している可能性を疑わざるを得ないからである。》
《この決定不可能状態を回避するためには、探偵は自らを取り巻く世界をどこかで区切ることが求められる。具体的にいうならば、探偵が〈これまでに集められた手がかりのみで推理する〉などといった条件のもとに謎を解いていくならば、そこには一定の解釈=推理が成立する可能性がある。しかし、もちろんそのような推理は、必ずしも〈真実〉とイコールではない。探偵がどこで世界を区切るのかは恣意性に基づいており、そのためにそこから導かれる推理も恣意的にならざるを得ないからである。》
《(…)つまり、探偵は「自らの正しさを自らは証明することができない」のであり、それを証明するには、メタレベルからの保証が必要となる。》
⚫︎たとえば、「読者への挑戦状」は、作品世界の外から「作者」が介入し、これまでのところで犯人を特定するための情報はすべて揃っているというメタ情報を示すことで「世界を閉じる」。しかしこれも厳密に言えば、この「作者からのメタ情報」は、読者には届くが、作品世界内にいる「探偵」にまでは届かないはずだから、探偵にとっての根拠にはならない。
⚫︎実作における後期クイーン的問題の反映は、主に「偽の手がかり」「犯人による操り」という主題に収斂される。
《現代の本格ミステリシーンにおいては、以上のような探偵の推理における限界性が多くの作家、読者によって自覚されていた。(…)したがって、探偵の推理の限界性を自覚した作家たちの目は、最終的に推理の正しさを保証するメタレベルの情報の扱い方に集中することになるのである。》
《「ある手がかりゆえに探偵が、犯人はAだと推理したとします。しかし、それは探偵がそう推理するだろうと先読みした真犯人Bが残した偽の手がかりである――これを論理的に否定する手だては、作品外にしかあり得ない。所詮作中人物にすぎない探偵にはないんです。(…)」『最後から二番目の真実』氷川透》
《(…)後期クイーン的問題の影響を受けていると思われる作品の多くは、作中に偽の手がかり問題を典型的な形で導く、〈顔のない死体〉や〈犯人による操り〉といったトリックを導入している。》
《端的にいって、後期クイーン的問題は、実作のレベルで考えたとき、単純に偽の手がかり問題として立ち現れてくる。実作に即した分析を重視する本研究では、したがって後期クイーン的問題を一度単純に偽の手がかりの問題として捉えることにする。(…)様々な論点を含む後期クイーン的問題を、敢えてシンプルな問題として眺めてみる必要があると思うからである。》
⚫︎しかし、この本において、「偽の手がかり」や「犯人による〈操り〉」だけに還元されない(たとえば、ある行為が犯人の意図なのか、失策なのか、ある出来事が狙ってなされたのか、偶然なのか、を、見分けることは基本的にできない、など)、後期クイーン的問題のそれ以外(それ以上)の可能性について論じているのが、第二章の『翼ある闇』論と、第七章の『シャム双子の秘密』論の部分で、そここそが読みどころだ。