⚫︎『憧れの世界 ―-翻案小説を書く』(青木淳悟)の、本編に入る前の「まえがき」的な「〈青春懺悔の記〉いかにファンでなかったか ? 」を読んで、本編を読む前に『耳をすませば』(近藤喜文)をちゃんと観ておかないといけないと思って、地元で唯一生き残っているDVDをレンタルしてくれる店まで自転車を走らせて、借りてきて観た。
それで、『耳をすませば』があまりに素晴らしいので驚いてしまった。いや、前に一度くらいは観ているはずなのだけど、こんなに凄かったのか、と。もしかしたら『猫の恩返し』と頭の中で混同してしまっていて、観たのは『猫の恩返し』の方だったかもしれないし、違うかもしれない。それくらいぼんやりした印象しかなかった。
とにかく空間の描出がすごい。運動よりも空間。運動を見せるために空間がある(宮崎駿はどちらかというとこちらだと思うが)のではなく、空間を展開させるために運動があるという感じ。今までは、坂道や高低差を演出の中に組み込むのが最もうまいアニメ監督は新海誠だという認識だったが、これを観て、圧倒的に近藤喜文がすごいと思い直した。よりきめ細やかで、より大胆だ。特に前半は、カットが変わるごとにいちいち「おお」とか「そうくる」とか声が出るくらい素晴らしかった。
聖蹟桜ヶ丘周辺の坂の多い土地の描出が素晴らしいのは当然として(観ていると『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』を思い出す)、主人公の雫の住む団地の部屋があまりに素晴らしい。お姉さんが一人暮らしをするといって出ていったあと、いきなり二段ベッドと机の距離が広くなっていて、一瞬、え、なんで、と思うのだが、ああ、そうか、今までは一つの部屋を真ん中に二段ベッドを置くことで二つに分割していたのか、とわかった時には、「やられた」という感じと感動とで鳥肌がたった(それまでお姉さんの側の空間を一切見せないという、この演出の冴え ! )。こういう一つ一つがいっぱい詰まっていて、カットが変わるたびごとに驚かされる。
(追記。もう一度観てみたら、大学の合宿から帰った翌朝、姉が忙しなく家事をしつつ寝坊する妹を起こす一連の場面で、姉が自室に掃除機をかけているカットとして、姉側の空間がワンカットだけ示されていた。)
(おそらく宮崎駿は、無口で果敢に行動する女性が好きで、たとえば『赤毛のアン』のアンのような、空想好きでお喋りな女性は嫌いなのだと思う。しかし主人公の雫は、明かにアン的な人物であろう。ただ、そのような女性でも、坂道の街を走り回らせることによって、宮崎はなんとか折衷的に自分に折り合いをつけているのではないか。ただし、だから自分では監督しない。監督が宮崎ではなく近藤喜文であったことは、この映画の最大の幸福だろうと思う。)
『耳をすませば』があまりに素晴らしくて余韻に浸ってしまって、青木淳悟のつづきが読めなかった。
(ただ、リアルに中学生や高校生の時にこの映画を観たら「ケッ」と思っていただろうと思う。)