2025-03-20

⚫︎『憧れの世界 ――翻案小説を書く』(青木淳悟)から、「憧れの世界」を読んだ。面白かった。「ベタ」な青春小説とは言えないかもしれないが、「ガチ」な青春小説ではあった。そして、話があまりに綺麗に着地することに驚いた。

読む前に『耳をすませば』(近藤喜文)を観たのは正解だった。というか、『耳をすませば』の記憶がある程度鮮明でないと、この小説の面白さは半減してしまうのではないかと思う。これからこの本を読もうとする人には、ぜひ、読む直前に『耳をすませば』を観ることをおすすめしたい。

まだ「〈青春懺悔の記〉いかにファンでなかったか ? 」と「憧れの世界」を読んだだけで、二つ目の作品と最後の作者解説を読んでなくて、作者がどう言っているのかはわからないが、これは、『耳をすませば』の二次創作でもスピンオフでもなく、並行世界のような作品だと思った。そして、アニメ映画『耳をすませば』の並行世界というだけでなく、現実の、聖蹟桜ヶ丘駅周辺、多摩センター駅周辺、サンリオピューロランドなどの土地や施設のあり方に対する並行世界でもあり、また、もう一つの1995年という意味でも並行世界であるのではないか。

そしてまた、主人公の君島零は、『耳をすませば』の月島雫と並行関係にあるだけでなく、作家である青木淳悟とも並行関係にあるように思う(月島雫、君島零と青木淳悟は、年齢的にも一歳しか違わない)。作家は、君島零を書くことを通じて、自らが月島雫の並行的存在(分身)となろうとしている、のではないか。そして、月島雫の並行的存在として、1995年を生き直そうとしているのではないか。

それはつまり、『耳をすませば』への批評や、1995年についての論評ではなく、オリジナルの作品(アニメ『耳をすませば』には原作があるので厳密にはオリジナルとは言えず、このアニメからして原作と並行関係にあるとも言える)や現実の1995年と「同等なもの」を、それと並立させてみせるということだろう(批評、二次創作、パロディなどにはメタ視点が入るから階層的になり「並立」とはならない)。同等(並立)であるからこそ、その隣に、『耳をすませば』や1995年の出来事や記憶を置いておくこと(意識されていること)が、二次創作やパロディ、批評よりも、さらに強く要請されるのではないか。並置されることで、互いが互いを照らし合う関係となる。

(この小説は、夜空を見ても星は見えないが、地上に目を移すと住宅の灯りが星々のように見えるというくだりから書き出される。これは上下反転とも言えるが、先の展開を見るならば、反転というより、空と地上とを並行関係において見ているということになるだろう。主人公の零が読んでいる本は『24人のビリー・ミリガン』であり、彼女が魅了されるのは複数の顔を持つ阿修羅像だ。)

⚫︎ジョン・ロールズによる「無知のヴェール」という有名な思考実験がある。社会における公正さについて考えるとき、自分が具体的にどのような属性を持った人間であるのかということを、一旦忘れた(括弧に入れた)上で議論すべきだという考え方だ。イメージとして、自分が、どのような状況下で、どのような資質、あるいはどのような障がいを持って生まれるのかを未だ知らない、生まれる前の魂であるとして、あるうべき(望ましい)社会の公正さについて考え、そのような未だ生まれていない魂たちとして議論する、という感じだろうか。社会の公正さについては、自分が何者であるのか「無知」である状態において議論すべし、ということだ。

わたしが、どのような「わたし」であるのか、未だ知らない状態にあるわたし。この小説の話者には、ちょっとそういう感じがある。とはいえ、まったくの白紙状態にある「わたし」というわけではない(だから、社会的な公正性について語るための「わたし」ではない)。わたしは、月島雫として生まれるのか、君島零として生まれるのか、青木淳悟として生まれるのか、あるいは、それらに準じた近い境遇の別の「誰か」として生まれるのか。そして、わたしは、東京都多摩市に生まれるのか、埼玉県狭山市に生まれるのか、それともそれに準じた郊外都市の「どこか」で生まれるのか。そして、(並行世界として)この1995年に生まれるのか、あの1995年に生まれるのか、または別の1995年に生まれるのか。複数の、距離的に近い、近接した並行世界、近接した並行的人物として生まれることまでは絞られているが、その「どこ」に当たるのかは未だ未確定である「わたし」によって見られた(語られた)、そのあり得る一つである「君島零というケース」が、この小説なのではないか。わたしは、その人物(君島零)となるかもしれないし、そうでないかもしれない、そういう「わたし」が、君島零について語る。別の言い方をすれば、青木淳悟は、そのような語りの位置をこの小説において実現した、のではないか。

この話者は、主人公にとても近い距離にあり、近接した感覚を持ちながら、主人公自身ではなく、彼女を外から観察し、時に見失うことすらある(君島零が「猫」を見失うように)。それは、親が子供を見守る視点に近い感覚があるかもしれないが、それよりも密接で並行的、共犯的で、かつ意地悪でもあるように思われる。

話者は、あくまで外から主人公について語る。しかし、小説のはじめとおわりの部分では、語る話者と語られる主人公とが入り混じっているような書き方がなされている。この感覚が、この小説の基底としてあるのではないか。

《こうしてあまり漠然として見つづけていると、いつしかそちらへ吸い込まれてしまいそうな気持ちになる。ちょうど前方に向けられた境界の端に首から下の身体が映らなかったように、自分自身のことをまるで忘れていた。自覚的な瞬きをしてやっと自分を取り戻しかける。あっ。》(p22)

《「私」という問題にしばしばぶつかる。中学生のとりとめもない思いとしても、違和感の表明や無理解への反発としても。そもそもなぜ、どういうわけでいま自分が「そこの中学の」三年生であるのだろうか――。学区の区割りにしてからが、境界となる道路のどちら側に家があるかによってその子の入学する中学が決まる。同じ団地内でも棟によって学校が別になったり(W小からW中ではなくY中へ)。ではいったい、それが何か、どこまでが「私」にとっての問題といえるだろうか。》(p150~151)

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