⚫︎『蒼海館の殺人』(阿津川辰海)。現代日本ミステリの話題作を読むシリーズはまだ細々続いている。そろそろ飽きてきたかなあという気がしないでもないが。
この作品の特徴はまず、エンタメ小説として優れている(面白い)というところだと思う。それは、ミステリとしての面白さとは必ずしも重ならない。たとえば、『medium 霊媒探偵城塚翡翠』は、ミステリとしての構築性としては立派だが、最後のどんでん返しありきで全体が構成されているから、本編の「事件」の部分がそれに従属しすぎていて今ひとつ面白くないと、ぼくには感じられた。あるいは、『名探偵に甘美なる死を』や『時間旅行者の砂時計』は、趣味としては好きなタイプだが、特殊な設定で起こる事件について、ちゃんとフェアプレイを成り立たせるために、設定をガチガチに固めるのだが、その設定を説明している部分が、小説として読むには不細工というか、退屈というか、かったるい感じにどうしてもなってしまう。
対して、『蒼海館の殺人』は、すべての部分がエンタメとしてちゃんと面白く作られている。「探偵の苦悩」まで含めて、(マニアックな要素というわけではなく)ちゃんと物語に組み込まれている。登場人物たちの人物像やその関係性も、深く掘り下げられているとまではいえないが、それなりに説得力のある厚みを持たされている。サスペンス的な要素もある。だから文庫本で600ページ以上あっても、すらすら読めるし、退屈するところはない。
エンタメ小説としてとても緊密に組み立てられているのと同時に、ミステリとしても、かなり複雑で綿密な構築がなされていて、その両者がきちんと両立している。その意味で筆者の実力を感じる。
この作品もまた、(諸岡卓真が指摘する)「後期クイーン的問題」以降に特徴的な、探偵の不可能性(悩み)、顔のない死体(被害者と犯人の入れ替わり)、犯人による「操り」、メタ犯人、という道具立てになっている。その意味で、典型的な作例と言えるだろう(おそらく意図的に典型的な道具立てを用いている)。探偵はまず、メタ犯人の仕込んだ擬似餌としての「偽の手がかり」を用いて、メタ犯人が狙った通りの推理を展開する。ここでメタ犯人は二重の罠を仕掛けていて、第一段階の偽の真相があり、それが見抜かれた後にももう一層、第二段階の偽の真相が用意されている。そしてその先に、ようやく真相が暴かれる。
しかし、原理的には、その先もまた第三段階の偽の真相である可能性は否定できないはずだ。なのになぜ、それが「真相」だと決定できるのかといえば、「犯人の失策」を探偵が発見するからだ。探偵は「犯人の失策」から「犯人による操り」を見破り、それまでは「犯人の意図」に従属していたのが、犯人に対する優位なポジションをとる(犯人をメタレベルから引き摺り下ろす)ことができる。それは逆ににいえば、犯人が「失策」をしない限り、偽の手がかりと真の手がかりとを見分けることは探偵には原理的にできないということでもある。
(しかし、なぜ、どのようにして「犯人の失策(無為)」と「偽の手がかり(故意)」とを見分けることができるのか ? 、という問題もある。)
(もう一つ、「素直な子供」が犯人の制御通りには動かないという点もあるが。夏樹ではなくユウトの方。)
また、この作品における探偵の推理は、論理的に必要かつ充分な推論ではなく、蓋然性の高い憶測というレベルであることが多く、その真偽を確かめるためにはトリッキーな検証作業を必要とする。だから、「読者への挑戦」が成立するフェアな本格、というわけではない。だとしても、その検証の過程(対話)が、この作品のクライマックスの一つでもあるので、フェアな本格でないからダメだということではない。この検証(家族の対話)そのものが、殺人事件の解決とは別の、「家族関係という謎」の解明でもあり、ミステリ的にというよりも、ドラマ的に意味を持つ。その意味でも、ミステリ的要素とエンタメ的(ドラマ的)要素とがうまく重ね合わせられている。
だから、「新しさ」はあまりないが、その複雑で綿密な構築性と総合力によって優れている作品だと言えると思う。
(この作品は、クローズドサークルものではあるが「館もの」とはいえないだろう。館の構造と事件の真相とがほとんど関係ないから。)
「こんな顔のない死体の理由は、見たことがない。死体から顔を奪ったのは、実行犯でさえ誰を殺したのか分からなくさせるためですよ。(…)」
(『蒼海館の殺人』(阿津川辰海))